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Showing posts from September, 2026

A Nation That Knows Before It Acts — On the Ancient Word "Shirasu"

 "Japanese people don't speak up." I hear this from time to time when I talk with people from overseas. It's true that we rarely voice an opinion right away in a meeting. We often say neither "yes" nor "no" on the spot, and take the matter home to think it over. But something about that description has always bothered me. It isn't that we don't assert ourselves. Perhaps we are simply trying to understand the other person, and the situation, before we act. It was while I was thinking about this that I came across a phrase: "Japan is a Shirasu nation." It is a phrase rooted in a very old word — one that goes back to the Kojiki . On the Beach Where the Land Was Handed Over The Kojiki , compiled in 712, is Japan's oldest surviving chronicle. It begins with the age of the gods. One of its best-known scenes takes place in Izumo, on a shore said to be today's Inasa Beach. According to the Kojiki , the god Takemikazuchi descends ...

知ってから動く国――「シラス」という古い言葉のこと

 「日本人は自己主張しない」 海外の人と話していると、ときどきそう言われる。 確かに、会議ですぐには意見を言わない。 その場で「イエス」とも「ノー」とも言わず、いったん持ち帰ることも多い。 でも、私はずっと小さな違和感を抱えていた。 主張しないのではない。 まず相手を知り、状況を知ってから動こうとしているだけではないか ――と。 そんなことを考えていたとき、ひとつの言葉に出会った。 「日本はシラス国である」 『古事記』にさかのぼる、とても古い言葉だ。 国譲りの浜で 舞台は出雲。 今の稲佐の浜とされる海辺だ。 『古事記』によれば、天照大御神の使者として建御雷神(タケミカヅチ)がこの浜に降り立つ。 剣を波の上に逆さに突き立て、その切っ先にあぐらをかいて、国の主である大国主神にこう告げた。 「汝がうしはける葦原中国は、我が御子の知らす国ぞ」 あなたが「うしはく」しているこの国は、わが御子が「しらす」国である――。 ここで、「治める」を意味する言葉が二つ使われている。 ウシハク(領く) :土地や人を、自分のものとして支配すること シラス(知らす・治す) :もとは「知る」の尊敬語。知ることによって治めること もちろん、これは神話だ。 実際にこの浜でそんなやり取りがあったわけではない。 それでも、古代の人々が「治める」ことに二つの言い方を持っていた―― そのこと自体が、私にはとても興味深く思えた。 井上毅が見つけたもの この二つの言葉の違いに、真剣に向き合った人物がいる。 明治の法制官僚、井上毅(いのうえ・こわし)。 伊藤博文のもとで、大日本帝国憲法の起草に深く関わった人だ。 もともとは西洋の法律を学んだ人だった。 しかし憲法をつくるにあたって、彼は日本の古典に立ち返る。 『古事記』や、本居宣長の『古事記伝』を読み込んだ。 そこで井上は、あることに気づく。 天照大御神や天皇に関わる場面では「しらす」。 大国主神をはじめ、各地の豪族の場面では「うしはく」。 二つの言葉が、きちんと使い分けられている ――と。 井上の説明はこうだ。 「うしはく」は、西洋でいう「支配」と同じ。 一方の「しらす」は「知る」から来ている。 治める者がまず民の喜びや悲しみ、願いを知り、それを鏡のようにわが心に映して治めること。 そして井上は、この「しらす」こそが日本という国の本質だと考えた。 ――た...

洲崎の海の敵は、道灌を殺した男だった

 前回、 享徳の乱が終わったあとの関東 を追いかけた。都鄙合体、長享の乱、そして河越夜戦。書き終えて、ふと『南総里見八犬伝』の最後の巻を開き直してみた。 物語のクライマックスは、里見家と関東の諸勢力とのあいだの大合戦だ。戦場は三つある。下総の行徳口、国府台、そして安房の 洲崎沖 。最後の洲崎沖では、海の上での戦いになる。 では、海から攻め寄せてくる敵の総大将は誰か。 扇谷定正 ――八犬士の「最大の敵」として描かれる、関東管領である。 この名前を見て、手が止まった。前回の記事で、私は同じ人物について書いたばかりだったからだ。太田道灌を暗殺した、扇谷上杉家の当主・ 上杉定正 。 馬琴は、この男をラスボスに選んでいたのだ。 第1章 洲崎沖の海戦 物語の中では、文明15年(1483年)の冬のことである。 八犬士に恨みを抱く扇谷定正は、山内顕定、滸我公方・足利成氏らと手を組み、里見討伐の連合軍を起こす。里見家は犬士たちを三方面に振り分けて迎え撃つ。 洲崎口の守りを任されたのは、 犬山道節 だった。 この海戦の描写は、『三国志演義』の 赤壁の戦い を下敷きにしていると言われる。大軍で押し寄せる側が、海の上で策にはまって崩れていく。曹操の役回りを与えられたのが、定正というわけだ。 道節は定正を追い詰める。けれど、最後の最後で討ち漏らしてしまう。 道節と定正の因縁は、物語の序盤から続いている。道節が仕えていた 煉馬家 は、定正に滅ぼされた。道節は父の仇として、何度も定正の命を狙い、そのたびに届かなかった。洲崎の海でも、それは同じだった。 第2章 煉馬家を滅ぼしたのは、本当は誰か 調べていくと、面白いことに気づいた。 「煉馬」は、東京の 練馬 のもじりである。 史実では、室町時代の練馬には、豊島氏の一族が城を構えていた。文明9年(1477年)、豊島氏は山内上杉家の家臣・長尾景春の反乱に呼応して立ち上がる。そして江古田原・沼袋の戦いで敗れ、没落していく。 豊島氏を討った武将の名は―― 太田道灌 である。 つまり、道節の本当の「仇」にあたるのは、定正ではなく道灌なのだ。けれど八犬伝では、その役割がすべて定正に寄せられている。 では、道灌は物語のどこにいるのか。 実は、名前を変えて登場している。 巨田道灌 。そして定正の重臣には、道灌の息子と...

見るのではなく、神様に見てもらう――伊勢神宮で神楽をあげるということ

  近々、伊勢神宮へお参りに行くことになった。 今回は、神楽殿で神楽をあげていただく。いわゆる「御神楽(おかぐら)」の奉納である。 せっかくなので、事前に少し調べておこうと思った。神楽とはそもそも何なのか。伊勢で神楽をあげるということには、どんな歴史があるのか。 調べていくうちに、ひとつ、はっとさせられたことがあった。 神楽は、私たちが見るためのものではなかった。 正面にいるのは、神様 伊勢神宮の神楽殿で御神楽が奏されるとき、正面は神座(かみくら)になっている。申し込んだ私たちは、舞を背後から見守る形になるのだという。 つまり、舞の観客は神様なのだ。 「神楽」はもともと「神遊び」とも呼ばれてきた。神様に楽しんでいただき、喜んでいただくための歌と舞。私たちはその場に同席させていただき、神様と同じ方向を向いて、同じ舞を拝見する。 そう考えると、舞の出来栄えを「鑑賞する」というのとは、少し心持ちが違ってくる。願いや感謝の気持ちを、舞と音楽に乗せて届けていただく時間――そう言ったほうが近いのかもしれない。 岩戸の前の舞から 神楽の起源は、神話の中にある。 天照大御神が天岩戸にお隠れになったとき、岩戸の前で天鈿女命(あめのうずめのみこと)が神懸りして舞った。それが神楽の始まりだと伝えられている。 伊勢神宮の内宮にお祀りされているのは、まさにその天照大御神である。 岩戸の奥の神様に向けて舞われたのが始まりなのだとしたら、神楽が最初から「神様に見ていただくもの」だったのは、ある意味で当然なのだろう。もちろんこれは神話の話であって、史実とは分けて考える必要がある。それでも、伊勢で神楽をあげるということに、不思議な縁を感じずにはいられない。 もともと、個人は奉納できなかった 意外だったのは、伊勢神宮では古来、誰もが神楽をあげられたわけではない、ということだ。 神宮には「私幣禁断(しへいきんだん)」という決まりがあった。天皇以外の者が神宮にお供えをすることは禁じられていたのである。皇后や皇太子であっても、お供えには天皇の許可が必要だったという。 それが変わり始めるのは、平安時代の末から鎌倉時代の初めごろ。神宮に祈りを届けたいという人々の求めに応じて、斎宮の離宮である離宮院(現在の伊勢市小俣町、JR宮川駅の近く)の河原殿で「臨時祭」が行われるよ...

東の国が、二つに割れたまま戦国へ

  前回、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を読み返していて出会った一文をきっかけに、 鎌倉公方と将軍という「本来は同族でありながら並び立とうとした二つの権威」が、ついに享徳の乱という形で決着するまでの経緯を書いた 。1483年、山内上杉顕定・扇谷上杉定正が古河公方・足利成氏と和睦し、28年に及んだ大乱はようやく終わった――そこまでが前回の話だ。 あの記事を書き終えたあと、正直なところ、少しモヤモヤが残っていた。 和睦して、終わり。それで本当に終わったのだろうか。 調べ直してみると、享徳の乱の「終わり方」自体が、なんとも中途半端だった。そして、その中途半端さこそが、次の戦乱の火種になっていく。今日はその続きを書いていきたいと思う。 第1章 終わらなかった「終戦」 文明14年(1482年)11月27日――暦の上ではこの年だが、実際の和睦成立は翌年の1月6日にずれ込んでいる。8代将軍・足利義政の仲介で、古河公方・足利成氏と幕府はようやく和睦にこぎつけた。世に言う**都鄙合体(とひがったい)**である。 これで成氏は、正式な鎌倉公方として関東の統治を認められた。約28年に及んだ大乱に、一応の終止符が打たれたことになる。 けれど――ここが厄介なところなのだが、 この和睦は「関東を一つに戻す」ものではなかった 。 享徳の乱の過程で、関東は利根川を境に東西へと分断されていた。東側は成氏を支持する古河公方陣営、西側は関東管領・上杉氏の陣営。和睦が成立したあとも、成氏は古河に居を構えたままで、鎌倉に戻ることはなかった。 そしてもう一人、忘れてはいけない存在がいる。幕府がこの戦乱の最中に関東へ送り込んだ、将軍の弟・ 足利政知 である。政知は鎌倉に入ることすらできず、伊豆の堀越にとどまり続けていた。いわゆる 堀越公方 だ。 つまり和睦が成った後も、関東には「古河の公方」と「堀越の公方」が、二人同時に存在し続けていたのである。 戦は止んだ。けれど、関東という土地の分裂状態そのものは、何も解消されていなかった。 第2章 味方同士が、殺し合う 享徳の乱の間、上杉方は「山内上杉氏」と「扇谷上杉氏」という二つの家が力を合わせて成氏と戦っていた。特に扇谷上杉家では、家宰(執事)の 太田道灌 が抜群の軍才を発揮し、江戸城や川越城を築きながら各地を転戦し、乱の終結に大きく貢...

傷ひとつない武将が、なぜ井戸を掘ったのか(大多喜城)

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大多喜城について調べていたら、ふと引っかかる話に出会った。本多忠勝は、生涯50数度の戦に出ながら「かすり傷ひとつ負わなかった」と伝わる武将だ。徳川四天王のひとり、天下三槍のひとつ「蜻蛉切」の使い手――そんな武勇伝ばかりが語られる人だと思っていた。 でも大多喜城について読み進めるうちに、忠勝のもうひとつの顔が見えてきた。 彼は、戦う人であると同時に、地面を掘り、川を整え、町をつくる人でもあった。 根古屋城では守れない、と忠勝は言った 天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の後、家康は関東へ移封される。里見氏への備えとして、忠勝はこの上総国夷隅郡大多喜に10万石を与えられた。 このとき城主に据えられたのは、すでにあった根古屋城だった。ところが忠勝は、この城の防備に納得しなかったという。精細な城郭図を自ら添えて、家康に新築を願い出たのだ。 槍働きの武将、という印象からすると、これは少し意外な行動に思える。 忠勝は、地形を読む人だった。 夷隅川と、蟲川、置川に囲まれた丘陵。城の北西には九十九谷と呼ばれる急峻な谷が連なる。忠勝はこの天険を選び、自然の要害に人工の堀と塁を組み合わせて、近世城郭を築き上げた。南は夷隅川に落ち込む急崖、西は空堀、東と北は水堀。攻めるに難く、守るに易い――そういう構えである。 そしてもうひとつ、忠勝が特にこだわったのが水だったらしい。二の丸・三の丸にあわせて二十五もの井戸を設けたと伝わる。中でも今も残る大井戸は、周囲17メートル、深さ20メートル。籠城戦を見越した、実務家としての忠勝の顔がここに見える。 城の下に、町をつくる 城だけをつくって満足しない人だったのだと思う。忠勝は、ふもとに城下町の建設まで手がけている。 大多喜の総鎮守である夷隅神社も、忠勝が城下町を整備する中で創建したと伝わる。信仰の拠り所まで含めて、町のかたちをゼロから組み立てていったということだろう。 この「城と町をセットでつくる」姿勢は、忠勝ひとりの癖ではなかったようだ。 のちに関ヶ原の戦功で伊勢桑名10万石に移封されたとき、忠勝はここでも同じことをしている。城郭の改修、町割り、宿場の整備。揖斐川沿いに城を拡張し、城下町へ注ぎ込む川の流れまで整え、城下町・宿場町・港町として機能するよう大規模な町割りを行った。「慶長の町割り」と呼ばれるこの都市計画は、のちに「桑名藩創設...

分け御霊は、北を向く――那珂市に、もうひとつの鹿島があった

 先月、「“国譲り神話の現場”だったかもしれない、茨城の神社巡り」という記事を書いた。あのとき訪ねたのは、那珂市静の静神社だった。建葉槌命が、最後まで服従しなかった星の神・香香背男を平定した拠点として紹介した神社だ。 実はその同じ那珂市に、もうひとつ気になる神社がある。菅谷(すがや)にある鹿島神社――地元では「菅谷鹿島様」と呼ばれているらしい。名前からしてすでに察しがつくと思うが、この神社、鹿嶋市の本家・鹿島神宮と、驚くほど共通点が多いのだ。 北を向いた参道。祀られているのは武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)――鹿島神宮の御祭神そのもの。 同じ那珂市の中で、国譲り神話の「勝者側」の物語が、二重に、しかも別々の経緯で根を張っていた ことになる。 そもそも、なぜ鹿島神宮は「北向き」なのか 菅谷鹿島神社の話をする前に、本家・鹿島神宮の話をしておきたい。 日本の神社の多くは、東か南を向いて建っている。ところが鹿島神宮は違う。参道は西から東へまっすぐ伸びているのに、社殿はその参道の途中で右(南)から接続する特殊な位置関係にあり、このため社殿は北面するという、かなり珍しい配置になっている。 Wikipedia 理由として伝えられているのは、常陸国がかつて大和朝廷にとっての最前線だったから、というものだ。大和朝廷は東北の蝦夷を討伐するための重要な軍事拠点として、鹿島神宮と香取神宮を奉ったとされ、鹿島神と香取神を各地に祀っていくたびに、鹿島神宮の本殿が北側を向いているのは、これらを鎮護するためとも言われている。 shrineheritager つまり本殿そのものが、 今もまだ北の脅威に背を向けず、睨みを利かせ続けている という設計思想らしい。ちなみに本殿内部の神座は、内陣の南西隅にあって東を向いているというねじれた構造になっており、これは出雲大社本殿の神座配置と共通する構造だとも指摘されている。国譲り神話の「勝った側」の社殿が、「譲らせた側」の出雲大社と、内部構造でどこかつながっている――というのも、考え出すと夜も眠れなくなりそうな話だ。 hidemichitanaka 那珂市菅谷に、北を向いた分け御霊があった さて、本題の菅谷鹿島神社である。 鎮座地は那珂市菅谷2345。祭神はもちろん武甕槌大神、愛称は「鹿島さま」。御由緒によれば、そのはじまりは...

消えた公方、流れ着いた先で読む『八犬伝』

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 先日、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』のあらすじを読み返していて、ふと引っかかった一文があった。主人公・里見義実は、父が戦に敗れて命を落とし、自らも敗走の末に安房国(現在の千葉県南部)にたどり着いて里見家を興す──とある。 物語の始まりが、やけに具体的なのだ。「戦乱で敗れた父」とは誰との戦いなのか。「敗走」とは、どこからどこへの逃避行だったのか。江戸時代の読者なら常識だったのかもしれないが、令和の読者にはピンとこない。 調べてみると、これは架空の設定ではなく、15世紀の関東で実際に28年間も続いた大乱の記憶を下敷きにしていることがわかった。鎌倉公方、古河公方、上杉家、結城合戦、享徳の乱──断片的に聞いたことはあっても、つながりを説明しろと言われると案外あやしい。せっかくなので、物語の背景にある関東動乱を、自分の頭の整理も兼ねて書き残しておきたい。 第1章 鎌倉公方という「二人目の将軍」 室町幕府は京都に本拠を置きながら、関東の統治のために鎌倉に出先機関を設けた。これが鎌倉府で、その長を「鎌倉公方」と呼ぶ。将軍家の血筋でありながら関東で独自の勢力を築いたこの役職は、しばしば京都の将軍家そのものと張り合うほどの存在になっていった。 公方を補佐する役職が「関東管領」で、代々上杉家が世襲した。本来は公方を支える立場のはずが、両者の力関係は徐々に緊張をはらんでいく。この構図──公方 対 管領(上杉家)、そしてその背後にいる京都の将軍──が、以後半世紀にわたる関東動乱の骨格になる。 第2章 永享の乱、そして結城合戦 第4代鎌倉公方・足利持氏は、将軍家への不服従を隠さない人物だった。将軍が代替わりしても正式な改元を認めず古い元号を使い続けるなど、京都への反発を露骨に示していたという。この対立は永享10年(1438)、ついに武力衝突に発展する。永享の乱は、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱で、第4代鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発するものだった。持氏は敗れて自害し、鎌倉府はいったん機能を失う。  物語はここで終わらない。持氏の遺児のうち何人かは難を逃れ、翌永享12年(1440年)には結城氏朝が持氏の遺児を奉じて挙兵する結城合戦が起こる。下総結城城(現在の茨城県結城市)に籠城した氏朝父子は幕府・上杉連合軍と1...

二千年前の一杯の水――大湊、鷲ヶ浜の伝承

 冷たい水一杯が、今も法被の背中に――大湊と倭姫命 前回の記事を読んでくださった方から、こんなコメントをいただいた。 20年に一度の式年遷宮、お木曳き。神領民である大湊の法被の背中には「鷲」の文字が入っている。この鷲の物語にも、倭姫宮が登場する――と。 初めて聞く話だった。さっそく調べてみた。 水を求めた旅の途中 倭姫命は、天照大神を奉じて伊勢の地へ向かう長い旅の途中、伊勢の**大湊(おおみなと)**に立ち寄ったという。 喉が渇いていたのだろう。倭姫命は、この地で水を求めた。 鷲取りの翁 そのとき、大湊に住んでいたのは、鷲取りを生業とする一人の翁だった。 翁は冷たい水を汲み、倭姫命に差し上げた。 たったそれだけの、ささやかな出来事だ。けれど倭姫命はたいそう喜んだという。そしてこの浜に、翁にちなんだ名を与えた。 「鷲取りの小浜」 この浜は今も**鷲ヶ浜(わしがはま) として、大湊の地に残っている。水を差し上げたという故事にちなみ、この地には 水饗社(みあえしゃ)**という社も定められたと伝わる。 二千年近く経った今も ここまでなら、元伊勢と同じように「昔、こんな言い伝えがある土地です」という話で終わってもおかしくない。 けれど、この話には続きがある。 式年遷宮という、20年に一度、社殿を新しく建て替える伊勢神宮最大の行事がある。その中で、新しい社殿の用材となる御用材を、大勢の人の手で運び入れる神事を**お木曳き(おきひき)**という。 このお木曳きに参加する神領民の中に、大湊の人々がいる。彼らが身にまとう法被の背中には、**「鷲」**の一文字が染め抜かれている。 倭姫命に冷たい水を差し上げた、あの鷲取りの翁の物語が、今もこうして法被の意匠として受け継がれているのだ。 物語が、今も歩いている これまで書いてきた元伊勢の話も、豊受大神の話も、遠い昔にいったん完結した物語だった。 でも大湊の鷲の物語は違う。今も式年遷宮のたびに、大湊の人々が背中にその文字を背負って、御用材を曳いている。二千年近く昔の、たった一杯の水のやり取りが、今この瞬間にも、伊勢の町を歩いているということになる。 おわりに もし式年遷宮のお木曳きを目にする機会があれば、法被の背中にも、ぜひ注目してみてほしい...

一人では、食事もままならぬ――五百年後に呼ばれた神様

 一人では、食事もままならぬ――五百年後に呼ばれた神様 先ほど、伊勢神宮の内宮と、倭姫命が長い旅の末にたどり着いたという話を書いた。 書き終えて満足していたのだが、ふと気になった。伊勢神宮には、内宮のほかに外宮がある。祀られているのは豊受大神(とようけのおおかみ)。でも、天照大神が伊勢に鎮座したとき、この神様はまだそこにいなかったらしい。 調べてみると、そこには**五百年という時間の隔たり**があった。 **一人残された神様** 倭姫命が天照大神を伊勢の五十鈴川のほとりに鎮座させてから、長い年月が流れた。 内宮には、たしかに天照大神がいらっしゃる。けれど、そこには誰も食事の世話をする者がいなかった。 神様にも、食事がいる。 **夢枕に立った神** 時代は下って、第21代・雄略天皇の御代。伝承によれば西暦478年頃のこととされる。 ある夜、天皇の夢枕に天照大神が現れた。そしてこう告げたという。 自分一人では、食事も安らかにできない。丹波国比沼真奈井(たんばのくにひぬまない)にいる私の御饌の神、等由気大神(とゆけのおおかみ)を、近くに呼び寄せてほしい。 同じお告げは、皇大神宮の宮司であった大佐々命(おおさざのみこと)にも下ったという。**一人ではない、二人が同じ夢を見た**、というところに、この話の不思議さがある。 **丹波から伊勢へ** 呼び出された豊受大神は、もともと丹波国――現在の京都府北部――の比沼真奈井の地に祀られていた神だった。 この地には今も、比沼麻奈為神社(京丹後市)や、真名井神社(籠神社の奥宮)といった社が残る。丹波から伊勢へ向かう途中、しばらく留まったと伝わる場所には、福知山市大江町の豊受大神社が建てられた。今も「元伊勢外宮」と呼ばれている。 丹波から伊勢の度会(わたらい)、山田の原へ。長い道のりを経て、豊受大神はようやく天照大神のもとにたどり着いた。これが、伊勢神宮外宮の始まりとされている。 **五百年越しの呼びかけ** 内宮に天照大神が鎮座してから、外宮に豊受大神が迎えられるまで。伝承の年代をそのまま数えれば、実に五百年ほどの隔たりがある。 以前、大洗の神様たちの話を書いたことがある。父神・大己貴命が磯に降り立ってから、息子神・建御名方命の霊木が海を漂着するまで、900年。今回の五百年は、それよりは短い。けれど、**「一人では寂しい、食事...

美しい国を求めて――倭姫、伊勢へ至るまでの長い旅

 美しい国を求めて――倭姫、伊勢へ至るまでの長い旅 先日、伊勢神宮の成り立ちについてふと調べものをしていた。 きっかけは、伊勢神宮に天照大神を祀ったのは倭姫命(やまとひめのみこと)だったか、という何気ない疑問だった。答えは「伝承としてはそうだ」というものだった。ただ、調べていくうちに、その道のりが思っていたよりずっと長く、そして各地を転々としたものだったことを知った。 **宮中を出た神様** 伝承によれば、天照大神はもともと宮中で祀られていた。それを最初に外へ移したのは、崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)である。行き先は大和の笠縫邑(かさぬいむら)。現在の奈良県桜井市、大神神社の摂社である檜原神社がその伝承地とされている。 ここでの奉斎は、記紀の年代記述を素直に読めば数十年におよぶ。宮中を離れた神様が、すぐに安住の地を得たわけではなかった。 **倭姫命に託された旅** その後を引き継いだのが倭姫命だった。垂仁天皇の時代、彼女は鎮座にふさわしい地を求めて、近江、美濃、伊賀など各地を巡り歩く。 この巡幸の途中、一時的に天照大神が祀られたとされる場所は「元伊勢」と呼ばれ、今も全国に二十数か所の伝承地が残っている。 中でも有名なのが、京都府宮津市の籠神社(このじんじゃ)だ。丹後一宮であり、奥宮の真名井神社とあわせて、元伊勢の中でも特に格式が高いとされる。同じ京都府内には、福知山市大江町の皇大神社(こうたいじんじゃ)もある。こちらは通称「元伊勢皇大神社」といい、まさにその名を掲げる神社である。 三重県志摩市の伊雑宮(いざわのみや)は、現在は伊勢神宮の別宮の一つとなっているが、こちらも元伊勢伝承地として神宮との関わりが深い。 **「この国に居らむと欲ふ」** 長い巡幸の末、倭姫命は伊勢の五十鈴川のほとりにたどり着く。そこで天照大神から、こんなお告げがあったとされる。 この神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜し国なり。この国に居らむと欲ふ。 ――「美しい良い国だ、ここに居たい」。そう告げられて、ようやく旅は終わる。これが伊勢神宮(内宮)の創祀の伝承である。 記紀の年代表記だけを見れば、この巡幸自体は一、二年ほどの出来事のようにも読める。けれど、二十数か所も伝承地が残っているということ自体が、簡単には決まらなかった旅の長さを物語ってい...

源氏は、応神神話をどう乗っ取ったか

 前回、応神天皇をめぐる王権神話が、権威が先に確立し、由緒はあとから追いついてくる形で組み上がっていった過程を書いた。 書き終えたあとも、ひとつ引っかかっていたことがある。この、ゆっくり組み上がった権威を、最終的に一番うまく手に入れたのは誰だったのか。 答えは、はっきりしている。源氏だ。 今回は、その「使いこなし方」の中身を、もう少し掘り下げてみたい。 第1章 既製の最高権威を、そのまま受け継ぐ 貞観元年(859年)、清和天皇の勅願によって、宇佐の八幡神は京都・男山に勧請された。これが石清水八幡宮の始まりだ。この時点ですでに、伊勢神宮に次ぐ「国家第二の宗廟」という、日本でも屈指の格式を持つ神社だった。 そして清和源氏は、その名の通り清和天皇の子孫にあたる。つまり、「先祖の天皇が建てた神社を、子孫が氏神として崇める」という筋道が、最初からごく自然に成り立っていたことになる。 これは実はかなり有利な出発点だ。普通、一つの氏族が新たに権威ある神を氏神として掲げようとすれば、その権威づけ自体に長い時間と手間がかかる。ところが源氏の場合、すでに国家がお墨付きを与えた最高格の神社が、血統の上でも「うちの先祖の神社」と言い切れる場所に、最初から存在していた。**ゼロから権威を作る必要がなく、既製の最高権威をそのまま受け継げる立場に、たまたま生まれ落ちていた。**これが第一の強みだ。 第2章 祭神の性格まで、都合よく重なった もう一段、話は都合よくできている。 石清水八幡宮の祭神は応神天皇、比売大神、神功皇后。この応神天皇と神功皇后は、朝鮮半島への遠征、いわゆる三韓征伐に関わったと信じられていた神々でもあった。武人にとって、これほど据わりのいい祭神もない。 伝承によれば、河内守に任じられた源頼信は、任地に応神天皇の陵墓があることに触発され、「石清水八幡宮は源氏の氏神である」という告文を納めたという。これは単なる思いつきではなく、 血統(清和天皇の子孫)と、武功にふさわしい祭神の性格(応神天皇=軍神)という、二つの理屈を重ね合わせる 、かなり周到な結びつけだったように見える。 前回書いたとおり、応神天皇=八幡神という由緒そのものは、承和11年(844年)の宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起あたりから徐々に文字化されてきたものだ。源氏が氏神...

応神天皇、王権神話の創出はこうだった

 前回、八幡神社について書いたとき、ひとつ気になることを調べ残していた。 八幡神が「応神天皇の神霊である」と、いったい誰が、いつ、決めたのか。 調べていくと、そこには単純な答えなど最初からなかった。年代も、父親も、民族の出自さえもはっきりしない一人の天皇が、数百年をかけて少しずつ「国家の守護神」へと組み上げられていく、ゆっくりとした神話創出の過程が見えてきた。今回は、その組み立ての順序を追ってみたい。 第1章 土台となった「空白」 すべての出発点は、応神天皇という人物の記録そのものが、最初から曖昧だったことにある。 『日本書紀』は在位を270年から310年、崩御を110歳と記す。ところが『古事記』は即位年という形式すら持たず、崩御を干支だけで記した一行があるのみで、享年は130歳。二つの正史の間で、すでに20年の食い違いがある。 この背景には「辛酉革命説」という編纂上の事情があるとされる。日本書紀の編者は、推古9年(601年)が辛酉の年であることに着目し、そこから1260年遡った辛酉の年を初代神武天皇の即位年とした。それが紀元前660年だ。初代をそれだけ古く見せるには、後の代の年代も全体を引き伸ばす必要があり、応神天皇のあたりでは実年代よりおよそ120年、干支二巡分ずれているのではないか、と指摘されている。 父親についても、仲哀天皇の崩御から出産まで13ヶ月という不自然な期間があり、武内宿禰説、住吉大神説、さらには出雲王家の口伝に残る「身代わりの子」説まで、異説が絶えない。渡来民族の王だったのではないかという「騎馬民族征服王朝説」まで飛び出す始末だ。 つまり応神天皇は、最初から輪郭のはっきりしない人物だった。 そしてこの「空白」こそが、後の時代の人々が自分たちの必要とする物語を書き込む余地になった、というのが今回の見立てだ。 第2章 まず神としての「格」が先に上がった 面白いのは、応神天皇という個人の物語よりも先に、八幡神という「神」としての権威が、着々と積み上げられていったことだ。 720年、九州で隼人の乱が起きたとき、八幡神は神輿に乗って朝廷軍を導いたと伝えられる。これが神輿の起源ともいわれ、八幡神は「軍神」としての実績を得る。725年には現在の地(小倉山)に遷座して社格が上がり、737年には『続日本紀』に初...

謎が多い天皇だからこそ祀られた応神天皇

 先日、近所の神社、富岡八幡宮の由緒書きをなんとなく眺めていて、手が止まった。 祭神、応神天皇。 考えてみれば、この名前を見ない土地はほとんどない。大きな街にも、田舎の集落にも、必ずと言っていいほど八幡神社がある。全国におよそ四万社ともいわれる、日本最大級の信仰ネットワークだ。 けれど、いざこの応神天皇という人物について調べ始めると、驚くほど「わからないこと」だらけだった。いつ即位したのかも、本当の父親が誰なのかも、書物によって話が食い違う。渡来人だったのではないか、という説さえある。 正体のはっきりしない人が、なぜこれほどまでに、日本中で手厚く祀られる神になったのだろう。今回はその足取りを追ってみたい。 第1章 二つの史書、二つの年代 応神天皇の在位年は、『日本書紀』と『古事記』で、実はまったく一致しない。 『日本書紀』は律儀に「応神天皇元年」から「四十一年」まで、年号を立てて記録している。西暦に直すと270年から310年ごろとされ、崩御の年齢は110歳。 一方『古事記』は、そもそも即位年という形式そのものを持たない。書かれているのは、崩御の年を干支で示した「甲午年」の一行だけだ。享年は130歳。日本書紀の110歳と比べて、20歳も開きがある。 なぜこんな食い違いが生まれるのか。 有力な説のひとつに、「辛酉革命説」がある。中国の讖緯思想では、辛酉の年、それも1260年に一度巡ってくる辛酉の年に、大きな革命が起こるとされていた。日本書紀の編纂者は、推古天皇9年(西暦601年)が辛酉に当たることに目をつけ、そこから1260年遡った辛酉の年を、初代神武天皇の即位年に設定した。それが紀元前660年だ。 初代をそれだけ古く見せかけるためには、歴代天皇の年代も、全体を引き伸ばさなければつじつまが合わない。特に応神天皇のあたりは百済の史料と年代が重なる部分があり、実年代よりおよそ120年――干支にして二巡分――古く動かされているのではないか、と指摘する研究者は少なくない。 つまり応神天皇は、実際には4世紀末から5世紀初め頃の人物だったのではないか、というのだ。 史書の年号は、時に「事実の記録」ではなく「政治的な意図の産物」でもある。 そのことを、応神天皇の紀年ほどはっきり教えてくれる例も少ない。 第2章 本当の父...