傷ひとつない武将が、なぜ井戸を掘ったのか(大多喜城)

大多喜城について調べていたら、ふと引っかかる話に出会った。本多忠勝は、生涯50数度の戦に出ながら「かすり傷ひとつ負わなかった」と伝わる武将だ。徳川四天王のひとり、天下三槍のひとつ「蜻蛉切」の使い手――そんな武勇伝ばかりが語られる人だと思っていた。





でも大多喜城について読み進めるうちに、忠勝のもうひとつの顔が見えてきた。彼は、戦う人であると同時に、地面を掘り、川を整え、町をつくる人でもあった。

根古屋城では守れない、と忠勝は言った

天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の後、家康は関東へ移封される。里見氏への備えとして、忠勝はこの上総国夷隅郡大多喜に10万石を与えられた。

このとき城主に据えられたのは、すでにあった根古屋城だった。ところが忠勝は、この城の防備に納得しなかったという。精細な城郭図を自ら添えて、家康に新築を願い出たのだ。

槍働きの武将、という印象からすると、これは少し意外な行動に思える。忠勝は、地形を読む人だった。

夷隅川と、蟲川、置川に囲まれた丘陵。城の北西には九十九谷と呼ばれる急峻な谷が連なる。忠勝はこの天険を選び、自然の要害に人工の堀と塁を組み合わせて、近世城郭を築き上げた。南は夷隅川に落ち込む急崖、西は空堀、東と北は水堀。攻めるに難く、守るに易い――そういう構えである。

そしてもうひとつ、忠勝が特にこだわったのが水だったらしい。二の丸・三の丸にあわせて二十五もの井戸を設けたと伝わる。中でも今も残る大井戸は、周囲17メートル、深さ20メートル。籠城戦を見越した、実務家としての忠勝の顔がここに見える。

城の下に、町をつくる

城だけをつくって満足しない人だったのだと思う。忠勝は、ふもとに城下町の建設まで手がけている。

大多喜の総鎮守である夷隅神社も、忠勝が城下町を整備する中で創建したと伝わる。信仰の拠り所まで含めて、町のかたちをゼロから組み立てていったということだろう。

この「城と町をセットでつくる」姿勢は、忠勝ひとりの癖ではなかったようだ。

のちに関ヶ原の戦功で伊勢桑名10万石に移封されたとき、忠勝はここでも同じことをしている。城郭の改修、町割り、宿場の整備。揖斐川沿いに城を拡張し、城下町へ注ぎ込む川の流れまで整え、城下町・宿場町・港町として機能するよう大規模な町割りを行った。「慶長の町割り」と呼ばれるこの都市計画は、のちに「桑名藩創設時の名君」と称えられるほどの評価を受けている。

大多喜と桑名。ふたつの土地に、忠勝は何百年も残る町の骨格を遺した。

今も歩ける、忠勝の跡

大多喜城のふもとを歩くと、忠勝の痕跡が思いのほかあちこちに残っている。

城の遺構でただひとつ現存する建造物、薬医門。そのそばの大井戸。忠勝の菩提寺である良玄寺には、忠勝と夫人、次男忠朝の墓碑が並び、忠勝の肖像画も伝わっている。裏手の忠勝公園からは、城を望むことができるという。行徳橋の欄干には、槍を構えた忠勝の小さな銅像が2体。そして城下の老舗・津知家では、忠勝が10万石を拝領した故事にちなむ銘菓「最中十万石」が、今も作られ続けている。

御城印には、本多家の家紋「立葵」とともに、忠勝の愛槍・蜻蛉切の穂先に刻まれた梵字があしらわれているそうだ。

おわりに

「無傷の武将」という言葉だけを聞くと、忠勝は戦場だけの人に見えてしまう。でも実際に城と町の成り立ちを追いかけてみると、彼が本当に得意だったのは、壊すことよりも、地形を読み、水を確保し、人が暮らせる場所をつくることだったのではないか、そんな気さえしてくる。

大多喜の町を歩くとき、天守や武具だけでなく、忠勝が掘らせた井戸や、忠勝が組んだ町割りの跡にも目を向けてみたい。かすり傷ひとつ負わなかった武将が、静かに遺した仕事の跡を。

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