東の国が、二つに割れたまま戦国へ

 前回、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を読み返していて出会った一文をきっかけに、鎌倉公方と将軍という「本来は同族でありながら並び立とうとした二つの権威」が、ついに享徳の乱という形で決着するまでの経緯を書いた。1483年、山内上杉顕定・扇谷上杉定正が古河公方・足利成氏と和睦し、28年に及んだ大乱はようやく終わった――そこまでが前回の話だ。

あの記事を書き終えたあと、正直なところ、少しモヤモヤが残っていた。

和睦して、終わり。それで本当に終わったのだろうか。

調べ直してみると、享徳の乱の「終わり方」自体が、なんとも中途半端だった。そして、その中途半端さこそが、次の戦乱の火種になっていく。今日はその続きを書いていきたいと思う。

第1章 終わらなかった「終戦」

文明14年(1482年)11月27日――暦の上ではこの年だが、実際の和睦成立は翌年の1月6日にずれ込んでいる。8代将軍・足利義政の仲介で、古河公方・足利成氏と幕府はようやく和睦にこぎつけた。世に言う**都鄙合体(とひがったい)**である。

これで成氏は、正式な鎌倉公方として関東の統治を認められた。約28年に及んだ大乱に、一応の終止符が打たれたことになる。

けれど――ここが厄介なところなのだが、この和睦は「関東を一つに戻す」ものではなかった。

享徳の乱の過程で、関東は利根川を境に東西へと分断されていた。東側は成氏を支持する古河公方陣営、西側は関東管領・上杉氏の陣営。和睦が成立したあとも、成氏は古河に居を構えたままで、鎌倉に戻ることはなかった。

そしてもう一人、忘れてはいけない存在がいる。幕府がこの戦乱の最中に関東へ送り込んだ、将軍の弟・足利政知である。政知は鎌倉に入ることすらできず、伊豆の堀越にとどまり続けていた。いわゆる堀越公方だ。

つまり和睦が成った後も、関東には「古河の公方」と「堀越の公方」が、二人同時に存在し続けていたのである。

戦は止んだ。けれど、関東という土地の分裂状態そのものは、何も解消されていなかった。

第2章 味方同士が、殺し合う

享徳の乱の間、上杉方は「山内上杉氏」と「扇谷上杉氏」という二つの家が力を合わせて成氏と戦っていた。特に扇谷上杉家では、家宰(執事)の太田道灌が抜群の軍才を発揮し、江戸城や川越城を築きながら各地を転戦し、乱の終結に大きく貢献している。

しかし、和睦からわずか4年後の文明18年(1486年)、事件が起きる。扇谷上杉家の当主・定正が、その功労者である太田道灌を暗殺してしまうのだ。

理由ははっきりしないが、道灌の実力があまりに大きくなりすぎ、主家の存在感を脅かすことへの警戒だったと言われている。共に戦い抜いた家臣を、勝った側が自らの手で葬る。この一件が、山内上杉家と扇谷上杉家の対立に火をつけた。

長享元年(1487年)、両上杉家はついに全面衝突する。長享の乱である。関東管領という同じ家格の中で「本家」と「分家」が殺し合う――これはもう、享徳の乱のときのような「公方 対 上杉」という分かりやすい対立軸ですらない。味方だったはずの者同士が食い合う、下剋上の様相が濃くなっていく戦いだった。

実蒔原の戦い、須賀谷原の戦いと、両家は一進一退の攻防を繰り広げ、この抗争は永正2年(1505年)まで、実に18年間もの長きにわたって続くことになる。

関東は、外の敵と戦うのをやめた代わりに、身内で潰し合う時代に入ってしまったのだと思う。

第3章 隙間に滑り込んできた男

歴史というのは残酷なもので、大きな家同士が消耗し合っているとき、その隙間から思いがけない勢力が頭をもたげてくる。

その男の名は、伊勢宗瑞――のちに北条早雲と呼ばれることになる人物である。

もともと駿河の今川氏に仕える客将だった宗瑞は、この関東の混乱、とりわけ堀越公方家の内紛につけ込む形で、明応2年(1493年)頃に伊豆へ進出する。そのまま相模の小田原城まで手に入れ、後北条氏として関東進出の足がかりを築いていった。

享徳の乱で疲弊し、長享の乱でさらに体力を失っていく旧勢力。そこに、まったく新しい論理で動く新興勢力が入り込んでくる。関東の主役交代は、もうこの時点で静かに始まっていたのだと思うと、歴史の展開の速さに少し寒気すら覚える。

第4章 河越の夜、旧秩序が終わる

宗瑞の跡を継いだ子・氏綱、孫・氏康の代になると、後北条氏は着実に版図を広げ、ついに旧来の関東の権威そのものと正面から衝突することになる。

天文15年(1546年)、河越夜戦。

北条氏康は、山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏という、かつての関東の権威を体現する三者の連合軍を相手に、寡兵をもって夜襲を仕掛け、これを打ち破った。

この一戦で、扇谷上杉家は当主・朝定が討ち死にし、事実上滅亡する。山内上杉憲政は関東での支配権を失い、越後の長尾景虎――のちの上杉謙信――を頼って落ち延びていく。そして古河公方もまた、後北条氏に取り込まれ、名目だけの存在へと変わっていった。

将軍と鎌倉公方の対立から始まった長い長い関東の内乱は、結局のところ、公方でも管領でもない、まったく新しい家によって幕を引かれることになったのだ。

おわりに

享徳の乱から河越夜戦まで、およそ90年。書き終えてみると、これはもう一つの戦いの記録というより、一つの秩序がゆっくりと壊れ、別のものに置き換わっていく過程そのものだったのだと感じる。

将軍と鎌倉公方。山内上杉と扇谷上杉。公方と管領。そのどれもが、最初は「身内の中での序列争い」だったはずだ。それが少しずつ疲弊と分裂を重ね、気づけば誰も予想しなかった新興勢力――伊勢宗瑞という一人の男の子孫に、関東そのものを明け渡すことになる。

歴史を追っていると、大きな崩壊はいつも、派手な一撃によってではなく、身内同士の小さな殺し合いの積み重ねによってもたらされるのだと思わされる。享徳の乱、長享の乱、そして河越夜戦。この一連の流れは、まさにそれを物語っているのではないだろうか。

あなたの町にも、こうして静かに、しかし確実に主役が入れ替わっていった時代の痕跡が、地名や城跡として残っていないだろうか。

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