応神天皇、王権神話の創出はこうだった
前回、八幡神社について書いたとき、ひとつ気になることを調べ残していた。
八幡神が「応神天皇の神霊である」と、いったい誰が、いつ、決めたのか。
調べていくと、そこには単純な答えなど最初からなかった。年代も、父親も、民族の出自さえもはっきりしない一人の天皇が、数百年をかけて少しずつ「国家の守護神」へと組み上げられていく、ゆっくりとした神話創出の過程が見えてきた。今回は、その組み立ての順序を追ってみたい。
第1章 土台となった「空白」
すべての出発点は、応神天皇という人物の記録そのものが、最初から曖昧だったことにある。
『日本書紀』は在位を270年から310年、崩御を110歳と記す。ところが『古事記』は即位年という形式すら持たず、崩御を干支だけで記した一行があるのみで、享年は130歳。二つの正史の間で、すでに20年の食い違いがある。
この背景には「辛酉革命説」という編纂上の事情があるとされる。日本書紀の編者は、推古9年(601年)が辛酉の年であることに着目し、そこから1260年遡った辛酉の年を初代神武天皇の即位年とした。それが紀元前660年だ。初代をそれだけ古く見せるには、後の代の年代も全体を引き伸ばす必要があり、応神天皇のあたりでは実年代よりおよそ120年、干支二巡分ずれているのではないか、と指摘されている。
父親についても、仲哀天皇の崩御から出産まで13ヶ月という不自然な期間があり、武内宿禰説、住吉大神説、さらには出雲王家の口伝に残る「身代わりの子」説まで、異説が絶えない。渡来民族の王だったのではないかという「騎馬民族征服王朝説」まで飛び出す始末だ。
つまり応神天皇は、最初から輪郭のはっきりしない人物だった。 そしてこの「空白」こそが、後の時代の人々が自分たちの必要とする物語を書き込む余地になった、というのが今回の見立てだ。
第2章 まず神としての「格」が先に上がった
面白いのは、応神天皇という個人の物語よりも先に、八幡神という「神」としての権威が、着々と積み上げられていったことだ。
720年、九州で隼人の乱が起きたとき、八幡神は神輿に乗って朝廷軍を導いたと伝えられる。これが神輿の起源ともいわれ、八幡神は「軍神」としての実績を得る。725年には現在の地(小倉山)に遷座して社格が上がり、737年には『続日本紀』に初めて名が現れる。さらに749年、東大寺の大仏建立に際して八幡神が自ら上京し、朝廷から篤い扱いを受けたことで、九州の一地方神は、鎮護国家を担う仏教守護神という、格別の地位を得るに至った。
そして769年、道鏡事件が起きる。「道鏡を皇位につければ天下太平」という神託が奏上され、称徳天皇は和気清麻呂を宇佐に派遣して真意を確かめさせた。清麻呂が持ち帰った神託は「皇統の者を立てよ」という、道鏡の即位を退けるものだった。
この事件がなぜ宇佐で起きたのか。順序として重要なのは、**「応神天皇の神だから皇位継承を託宣できた」のではなく、「すでに国家的な権威を持つ神だったからこそ、皇位継承という重大事の託宣先に選ばれた」**という点だ。八幡神が応神天皇であるという由緒は、実はこの時点ではまだ、確認できる文字史料に現れていない。
第3章 由緒はあとから追いついてくる
「八幡神=応神天皇」という同一視が文字として最初に確認できるのは、承和11年(844年)の奥書を持つ『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』(承和縁起)だ。道鏡事件からおよそ70年後にあたる。しかも研究者の中には、この縁起の実際の編纂時期を寛平元年(889年)から寛弘6年(1009年)のあたりと推定する説もあり、そうだとすれば道鏡事件からさらに一世紀以上が経過している。
『住吉大社神代記』の奥書は731年、『東大寺要録』の成立は1106年。これらに散らばる年代を並べてみると、ひとつの姿が浮かび上がってくる。
八幡神は、まず軍神・国家守護神として実績と権威を積み上げ、その後で「実は応神天皇の神霊である」という具体的な由緒を獲得した。神としての格が先にあり、系譜という物語は、権威が確立したあとから追いかけるように付け加えられていった。神話は、権威が必要とするタイミングで、必要な形に組み立てられる。 それがこの一連の年表から見えてくることだ。
第4章 源氏が選び取った神
由緒を得た八幡神は、次に大きな政治的役割を担うことになる。
宇佐から京都・石清水八幡宮へと勧請され、伊勢神宮に次ぐ「国家第二の宗廟」という地位を得たこの神社を、氏神として選んだのが源氏だった。源頼朝は鎌倉に鶴岡八幡宮を建て、源氏の守護神として掲げる。従う御家人たちもこぞって参拝するようになり、八幡神は皇室の守護神から、武家全体の守護神へと、もう一段階、性格を広げていく。
そしてここから、「勧請」という仕組みが働き始める。総本社から神霊を分けて、まったく別の土地に新しい神社を建てられる制度だ。鎌倉から室町、戦国へと武家の世が続く間、新しく領地を得た武士たちは、こぞって自分の城下や領国に八幡神を勧請していった。新しい領主が現れるたびに、新しい八幡社が生まれる。その連鎖が数百年続いた結果が、現在全国に残る、数万社という規模だ。
おわりに
こうして年表を並べ直してみると、応神天皇をめぐる物語は、決して一度に作られたものではないことがわかる。
年代のずれも、父親をめぐる異説も、渡来民族説も――どれも一人の人物の「実像」を突き止めようとする試みが、逆に「実像のなさ」を浮かび上がらせてしまった結果のように見える。そしてその空白の上に、隼人の乱、大仏建立、道鏡事件という国家的な出来事が積み重なるたびに、八幡神という存在は少しずつ格を上げ、最後にその格にふさわしい由緒として、応神天皇という名前があてがわれた。
王権の神話とは、最初から完成した物語として降りてくるものではなく、その時代その時代の必要に応じて、少しずつ組み上げられていくものなのかもしれない。応神天皇という空白の多い天皇は、その組み立てのプロセスを、千年以上の時間をかけて、私たちに見せてくれているように思う。
Comments
Post a Comment