洲崎の海の敵は、道灌を殺した男だった

 前回、享徳の乱が終わったあとの関東を追いかけた。都鄙合体、長享の乱、そして河越夜戦。書き終えて、ふと『南総里見八犬伝』の最後の巻を開き直してみた。

物語のクライマックスは、里見家と関東の諸勢力とのあいだの大合戦だ。戦場は三つある。下総の行徳口、国府台、そして安房の洲崎沖。最後の洲崎沖では、海の上での戦いになる。

では、海から攻め寄せてくる敵の総大将は誰か。

扇谷定正――八犬士の「最大の敵」として描かれる、関東管領である。

この名前を見て、手が止まった。前回の記事で、私は同じ人物について書いたばかりだったからだ。太田道灌を暗殺した、扇谷上杉家の当主・上杉定正。

馬琴は、この男をラスボスに選んでいたのだ。

第1章 洲崎沖の海戦

物語の中では、文明15年(1483年)の冬のことである。

八犬士に恨みを抱く扇谷定正は、山内顕定、滸我公方・足利成氏らと手を組み、里見討伐の連合軍を起こす。里見家は犬士たちを三方面に振り分けて迎え撃つ。

洲崎口の守りを任されたのは、犬山道節だった。

この海戦の描写は、『三国志演義』の赤壁の戦いを下敷きにしていると言われる。大軍で押し寄せる側が、海の上で策にはまって崩れていく。曹操の役回りを与えられたのが、定正というわけだ。

道節は定正を追い詰める。けれど、最後の最後で討ち漏らしてしまう。

道節と定正の因縁は、物語の序盤から続いている。道節が仕えていた煉馬家は、定正に滅ぼされた。道節は父の仇として、何度も定正の命を狙い、そのたびに届かなかった。洲崎の海でも、それは同じだった。

第2章 煉馬家を滅ぼしたのは、本当は誰か

調べていくと、面白いことに気づいた。

「煉馬」は、東京の練馬のもじりである。

史実では、室町時代の練馬には、豊島氏の一族が城を構えていた。文明9年(1477年)、豊島氏は山内上杉家の家臣・長尾景春の反乱に呼応して立ち上がる。そして江古田原・沼袋の戦いで敗れ、没落していく。

豊島氏を討った武将の名は――太田道灌である。

つまり、道節の本当の「仇」にあたるのは、定正ではなく道灌なのだ。けれど八犬伝では、その役割がすべて定正に寄せられている。

では、道灌は物語のどこにいるのか。

実は、名前を変えて登場している。巨田道灌。そして定正の重臣には、道灌の息子という設定の巨田助友という策士がいる。「太」を「巨」に変えただけの、分かる人には分かる置き換えだ。

なぜ馬琴は「太田」の名をそのまま使わなかったのか。道灌は江戸城を築いた人物である。そのため、徳川の世では扱いに気をつかう存在だったのではないか――そう推し量る愛読者もいる。確かな答えは分からない。

それでも、はっきり言えることが一つある。

八犬伝が世に出た江戸後期、道灌は江戸城の築城者として、江戸の庶民に広く親しまれていた。その道灌を殺した主君が定正だ。

江戸の読者にとって、これほど「憎まれ役」にふさわしい男はいなかったのかもしれない。

第3章 鎌倉・扇ガ谷から来た一族

ここで、史実の扇谷上杉家を振り返っておきたい。

「扇谷(おうぎがやつ)」という名は、鎌倉の扇ガ谷に屋敷を構えたことに由来する。上杉一族の中では、関東管領を継ぐ山内上杉家の分家的な立場で、相模守護を務めた家である。

享徳3年(1454年)、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を殺害し、享徳の乱が始まる。扇谷上杉家は、山内家を支えて成氏と戦うことになった。

けれど、扇谷家にとって、この戦いはあまりに過酷だった。

  • 享徳4年(1455年)、当主の上杉顕房が分倍河原の戦いで命を落とす。子の政真はまだ幼く、隠居していた祖父・持朝が当主に戻った。
  • 長禄元年(1457年)ごろ、家宰の太田道真・道灌父子が、河越城と江戸城を築く。のちに徳川の世の中心となる江戸城は、このとき扇谷家の城として生まれた。
  • 文明5年(1473年)、持朝の跡を継いでいた政真が、五十子の戦いで古河公方方に討たれる。まだ20代前半で、跡継ぎはいなかった。

当主を二代続けて戦で失ったのである。

家を存続させるため、道灌ら老臣たちが話し合い、政真の叔父にあたる人物を当主に立てた。

それが、上杉定正だった。

定正を当主に選んだ評定には、道灌自身も加わっていた。 13年後の結末を思うと、この事実が重くのしかかる。

第4章 「当方滅亡」

定正が家を継いで間もない文明8年(1476年)、長尾景春の乱が起こる。翌年、景春に五十子の陣を急襲され、定正は山内上杉顕定とともに上野へ敗走した。

この危機を救ったのが道灌だった。江古田原で豊島氏を破り、各地を転戦して、ついに反乱を鎮めた。扇谷家は、道灌の働きで南関東に大きな力を持つようになる。

――けれど、その力が大きくなりすぎた。

文明18年(1486年)7月26日。道灌は、定正の館があった相模の糟屋(現在の神奈川県伊勢原市)に招かれる。風呂から出たところを、定正の家臣・曽我兵庫に斬りつけられた。

『太田資武状』によれば、道灌は倒れながらこう言い残したという。

「当方滅亡」

なぜ定正が道灌を殺したのかは、今もはっきりしない。道灌の力と声望を恐れた、という見方がある。山内上杉顕定が道灌への疑いを吹き込んだ、という話も伝わる。

確かなのは、その後に起きたことだ。道灌の子・資康をはじめ、多くの家臣が扇谷家を離れて山内家へ走った。翌年には、両上杉家が戦う長享の乱が始まる。

定正自身は、明応3年(1494年)に山内顕定との戦いに向かう途中、荒川を渡ろうとして落馬し、その傷がもとで世を去った。

そして扇谷上杉家は、半世紀後の河越夜戦で当主・朝定が討ち死にし、事実上滅び去る。

道灌の最期の言葉は、そのとおりになった。

おわりに

史実の文明15年(1483年)は、都鄙合体によって、28年続いた享徳の乱がようやく終わった年である。

馬琴は、まさにその年に、架空の大戦を置いた。現実の関東が「和睦」で一息ついたその冬に、物語の中では、定正の大軍が安房の海へ押し寄せていく。

洲崎沖で道節の刃から逃れた定正は、どこか、道灌の死から逃げおおせた史実の定正と重なって見える。

道節の無念は、煉馬家の無念であり――もしかすると、馬琴が江戸の読者と分かち合った、道灌への無念でもあったのではないだろうか。

鎌倉の扇ガ谷。伊勢原の糟屋。江戸城。そして安房の洲崎。

八犬伝を片手にこの土地を歩いたら、物語と史実が、同じ風景の上に重なって見えてくるのかもしれない。

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