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消えていく地名に、私たちができること

  はじめに——「海上さん」との出会いから始まった旅 先日、「海上(うなかみ)」という珍しい苗字の方に出会いました。何気ない自己紹介から始まったその会話は、思いがけず私を、地名という小さな、けれど途方もなく奥深い世界へと引き込んでいきました。 調べてみると、この苗字は千葉県旭市——かつての海上郡海上町——にルーツを持つことがわかりました。平安時代、千葉一族がこの地を領し、「海上」を名乗ったのがはじまりです。町村合併で「海上町」という行政区画は2005年に姿を消しましたが、「旭市海上」という大字(おおあざ)として、その名前は今もしっかりと住所の中に生き続けています。 このやり取りを通じて、私はあることに気づかされました。地名というのは、単なる記号ではない。それは何百年、何千年という時間をかけて積み重ねられた、土地の記憶そのものなのだと。 そして同時に、もう一つの事実にも直面しました。すべての地名が、海上さんのように幸運だったわけではない、ということです。 第1章 消えた地名、生き残った地名 日本には、平成の大合併(1999〜2010年頃)で数多くの市町村が姿を消しました。多くの場合、旧町村名は「大字」として住所に残ります。しかし、そうでないケースも確かにあります。 たとえば「郡(ぐん)」の名前です。行政機能を持たないため大字のような救済措置がなく、そのまま住所表記から消えてしまうことが少なくありません。平成の大合併だけで、郡の数はおよそ3分の2にまで減りました。 さらに厄介なのは、都市部で行われる「住居表示」による地名の書き換えです。合併とは別の制度ですが、「鍛冶町」「鷹匠町」のような、その土地の歴史や職業を伝える地名が、「中央一丁目」のような無機質な地番に置き換えられてしまう。合併以上に、静かに、しかし根こそぎ地名の記憶を奪っていく仕組みです。 第2章 地名は、時に「警告」だった ここが、私が最も心を動かされた部分です。 昔の地名の中には、その土地の危うさを後世に伝えるために付けられたものがあります。「蛇」がつく地名は、土石流や崖崩れを蛇に見立てたものだと言われています。名古屋市にはかつて「蛇崩(じゃほう)」という地名があり、郷土資料には土砂災害を示唆する記述が残っていました。「カワチ」「ナダ」「フカ」「リュウ...

“国譲り神話の現場”だったかもしれない、茨城の神社巡り

  はじめに——なぜ茨城に「国譲り」の痕跡が残っているのか 『日本書紀』の国譲り神話といえば、出雲での大国主神の国譲りが有名です。しかしそのクライマックスの少し手前、経津主神・武甕槌神という二柱の武神が国土平定のために各地を巡る中で、ただ一柱だけ最後まで服従しなかった神がいたと伝えられています。星の神、香香背男(かかせお、別名・天津甕星)です。 そしてこの香香背男を最終的に服従させたのが、倭文(しとり)の神・建葉槌命(たけはづちのみこと)でした。 面白いのは、この神話の舞台がどうやら茨城県北部、常陸国だったらしいということです。実際に建葉槌命・香香背男ゆかりの神社が、今も那珂市や日立市に残っています。今回は「ここが本当に国譲り神話の現場だったかもしれない」と思いを馳せながら、この一帯を巡ってみようと思います。 あわせて、茨城(常陸国)にはもう一つ別の平定伝説もあります。『常陸国風土記』に記された、建借間命(たけかしまのみこと)による国栖(くず)平定の物語です。これは記紀の神話というより、地誌に残る半歴史的な伝承ですが、「大和の勢力がこの地の先住勢力を服従させた」という構図は共通しています。この記事では主に建葉槌命・香香背男の神話ゆかりの神社を中心に紹介しつつ、常陸という土地全体が持つ「境界領域」としての性格にも触れてみたいと思います。 静神社(那珂市)——勝者・建葉槌命の本拠地 まず訪れたいのが、那珂市静に鎮座する静神社です。 祭神 :建葉槌命 社格 :常陸国二宮。鹿島神宮と並び称される、東日本有数の古社 ゆかり :経津主神・武甕槌神に最後まで服従しなかった香香背男を、服従させたのがこの建葉槌命とされています 建葉槌命は倭文氏の祖神であり、織物・武運・芸能の神として古くから信仰されてきました。長い参道と階段を上っていくと、鬱蒼とした社叢に包まれた境内に至ります。「東国平定を成し遂げた神の本拠地」というイメージそのままの、静かで厳かな空気が漂う場所です。 参拝の際は、ここが単なる古社というだけでなく、「国譲り神話の勝者側の拠点だったかもしれない」という視点を持ってみると、社殿や森の見え方も少し変わってくるかもしれません。 大甕神社(日立市)——敗者・香香背男が封じられた岩 静神社から車で30分ほど、日立市...

戦国の山城に上って感じたこと

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 長野県上田市にある砥石城(戸石城)に登ってきた。 「登城」というより、正直「登山」という言葉がしっくりくる道のりだった。麓の陽泰寺から続く急な坂道を、息を切らしながら一歩ずつ上る。整備されているとはいえ、決して楽な道ではない。この城が、あの武田信玄でさえ一ヶ月以上力攻めしても落とせなかった――そう聞いていたが、実際に自分の足で登ってみて、ようやくその意味が腑に落ちた気がする。 難攻不落は、地形そのものだった 砥石城は天文19年(1550年)、武田信玄が攻めあぐねた末に大敗を喫した城として知られている。世に言う「砥石崩れ」だ。横田備中守をはじめ千人ほどの兵が命を落としたと伝わる、信玄生涯最大の負け戦。 だが実際に急坂を登ってみると、この結果は必然だったようにも思える。石垣や堀を人工的に築くまでもなく、山そのものが最大の防御施設になっている。当時の武田軍の兵士たちは、この坂道を鎧兜を身にまとい、矢や石を浴びながら登らなければならなかったのだ。そう考えると、想像するだけで足がすくむ。 翌年、この城を落としたのは力攻めではなく、真田幸隆による調略だったという。正面から挑んでも消耗するだけの地形――それを見極め、内部から切り崩すという判断を下した幸隆の合理性にも、山を登りながら深く納得させられた。 山頂からの景色が語るもの 苦労して登り切った山頂からは、上田の市街や塩田、東部、佐久方面まで見渡せる、素晴らしい景色が広がっていた。 この眺望こそが、砥石城が要衝であった理由なのだと実感する。見渡す限りの土地の動きを把握できること。狼煙による情報伝達network。そして、高い場所に城を構えること自体が、麓の人々に対する権威の象徴でもあったのだろう。 村上氏、武田氏、真田氏――支配者が入れ替わるたびに、この景色を見つめていた武将たちの思いは、どのようなものだったのだろうか。自分の領地を守り抜こうとする執念か、それとも新たに手にした土地を見渡す高揚感か。 城跡が語りかけてくるもの 砥石城の周辺を歩くと、驚くほど多くの山城跡が点在していることに気づく。真田本城(松尾城)、天白城、矢沢城……。上田盆地を取り囲む山々には、いくつもの砦や城が築かれていた。 考えてみれば当然のことなのかもしれない。信濃と上野を結ぶ街道が通る交通の要衝で...

岩崎城 ― 徳川家康の危機を救い、その後の躍進のきっかけの一つとなった16歳の武将、丹羽氏重の戦い

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  はじめに 戦国時代、歴史の転換点にはしばしば無名に近い武将の奮闘があった。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いのさなかに起きた「岩崎城の戦い」もその一つだ。主役は、わずか16歳で城と兵239人の命運を背負った若き武将、丹羽氏重(にわ うじしげ)である。 病をおして城を守った若者 永禄12年(1569年)、丹羽氏勝の子として生まれた氏重は、尾張国の傍示本城主だった。兄・丹羽氏次が徳川家康に従軍して岩崎城を離れることになった際、代わりに城の守備を任されたのが氏重である。 このとき氏重は痘瘡(天然痘)を患っていたという。本来なら療養に専念してもおかしくない状況で、彼は城主代理としての務めを引き受けた。 素通りされるはずだった城 豊臣秀吉軍の池田恒興・森長可らが率いる三河奇襲部隊は、当初、小城に過ぎない岩崎城には構わず素通りするつもりだったとされる。しかし氏重はこれを黙って見過ごさなかった。 「見過ごすは末代までの恥」 「敵の動きを小牧山は未だ知らないであろう。われらが敵を食い止め討死すれば、必ず小幡城には聞こえる。また、小牧にも知らせが届こう」 氏重は城兵239人にこう告げ、討死を覚悟の一戦を命じたと伝わる。自らの命よりも、味方に敵の動きを伝えることを優先した決断だった。 三度の撃退、そして討死 岩崎城側は池田軍の攻城隊を三度にわたり撃退するなど、寡兵ながらよく戦った。しかし、新たに戦線に現れた森長可軍の銃撃に怯んだ隙をつかれ、氏重は討ち取られてしまう。享年16。 その最期を知った榊原康政は、兄・氏次に「氏重殿以下、ご立派な最後。仇はこの一戦で必ず討ち果たしましょうぞ」と伝令を送ったという。 家康の危機を救った一戦 この岩崎城での抵抗は、単なる局地戦では終わらなかった。奇襲部隊の足止めは、秀吉軍の動きを織田・徳川方に察知させる一因となり、小牧・長久手の戦いにおける織田・徳川軍の勝利に貢献したとされる。 もし奇襲部隊がそのまま素通りし、家康の本国が無防備な状態で突かれていたら、戦局は大きく違った展開を見せていたかもしれない。氏重の決断は、家康の戦略的な危機を救う結果につながったのである。 その後の家康の躍進、そして重なる幸運 小牧・長久手の戦いののち、家康は秀吉と和睦する。だが秀吉はその後も...

報われなかった武将、報われた土地——稲付城で太田道灌を思う

 東京都北区赤羽。駅の西口を出て少し歩くと、急な石段が現れる。 上りきったところにあるのが、静勝寺(じょうしょうじ)。実はここ、室町時代の武将・太田道灌(おおたどうかん)が築いたと伝わる稲付城(いなつけじょう)の跡地だ。 道灌といえば、江戸城を築いた人物として知られている。だが、道灌が関東に築いた城は江戸城だけではない。この稲付城もその一つだ。そして境内の道灌堂には、今も道灌の木像が祀られている。もし道灌が――正確には、この木像が――今の東京を「見て」いるとしたら、いったい何を思うだろう。それを確かめに、現地へ行ってみることにした。 道灌という男 太田道灌は1432年に生まれ、1486年に世を去った。相模・武蔵を治めた扇谷上杉家の家宰(家老)を務め、享徳の乱や長尾景春の乱といった関東の戦乱で、優れた戦術家として名を馳せた。 そして何より、1457年に江戸城を築いたことで知られる。当時の江戸は、入江に面したただの漁村に過ぎなかった。そこに城を築いた道灌の判断が、150年以上のちに徳川家康の入府、そして江戸・東京という大都市の礎につながっていく。 しかし道灌自身は、その繁栄を見届けることはできなかった。主君・扇谷上杉定正に謀反を疑われ、1486年、暗殺される。「当方滅亡」――自分が滅びれば扇谷上杉家も滅びる――という言葉を遺したと伝えられ、実際その後、扇谷上杉家は衰退の一途をたどった。武将としても歌人としても一流と評された男の、あまりに呆気ない最期だった。 江戸城と岩槻城をつなぐ中継地点 稲付城は、道灌が江戸城と岩槻城(現在の埼玉県さいたま市)との中継地点として築いたと伝わる城だ。岩槻街道(鎌倉街道)の要所に位置し、江戸城の守備を固めるための拠点だったとされる。 道灌の死後は孫の太田資高が居城し、後に後北条氏に仕えることになる。さらにその子・康資も岩淵郷五ヶ村を所領とし、太田氏はここに三代にわたって根を張った。豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏が滅び、徳川家康が江戸に入ると、稲付城は役目を終えて廃城になったという。 現地に立ってわかる、地形の意味 赤羽駅から歩いて実感するのは、この土地の高低差だ。武蔵野台地は道灌山・飛鳥山あたりから北へ、京浜東北線に沿うように細長い崖線となって続いている。その台地が赤羽で荒川にぶつかり、...

12年に一度しか開かない扉がある──秩父午歳総開帳、真夏の徒歩巡礼へ

 先日、秩父に日帰り巡礼に行ってきた。 西武秩父駅に降り立ったのは朝8時14分。7月の朝とはいえ、盆地特有の空気がすでにじわりと重い。でも足取りは軽かった。今年は「午歳(うまどし)」。12年に一度しか訪れない、特別な年だから。 「午歳総開帳」とは何か 秩父には三十四か所の観音霊場がある。「西国三十三か所」「坂東三十三か所」と並んで日本百観音霊場のひとつに数えられる、由緒ある巡礼路だ。 その34の札所が、午歳に一斉にご本尊を公開する──それが「午歳総開帳」。開催は12年に一度。普段は厨子の奥に厳重に安置されていて、誰も目にすることのできないご本尊の観音様に、この期間だけ直接手を合わせることができる。 秩父札所の開創は元仁元年(1224年)、午年の3月18日とされている。だから総開帳は午歳に開かれる。約800年前から続く、この土地の約束だ。 2026年の開催期間は3月18日から11月30日まで。今回は真夏の7月に、西武秩父駅から歩いて回れるコースを選んだ。 8:25 野坂寺──蓮の花が迎えてくれた 駅から徒歩10分ほどで12番・野坂寺に着く。 重厚な黒い楼門をくぐると、まず目に飛び込んでくるのが蓮の花だ。7月はちょうど見頃で、境内の池が淡いピンクで埋まっていた。「花の寺」と呼ばれる所以がよくわかる。 享保年間(1716〜1735年)に建てられた楼門に並ぶのは、地獄の十王たちの像。入り口からしてただならぬ気配だが、境内に入ると一転、庭園が美しく整えられた静かな空間が広がる。 午歳総開帳では、本堂の前に回向柱が立てられ、五色の御手綱が結ばれていた。その綱を握ると、ご本尊・聖観世音菩薩と縁を結ぶことができる。列に並んで、綱をそっとつかんだ。不思議と、手のひらに温もりのようなものを感じた気がした。 9:05 祭の湯みやげ市──巡礼グッズはここで 野坂寺を出て、来た道を戻るように西武秩父駅方向へ。駅直結の「祭の湯みやげ市」に9時の開店に合わせて立ち寄る。 白衣、輪袈裟、納経帳。巡礼に必要なものはひと通りここで揃う。秩父銘仙のハンカチや、イチローズモルト、秩父麦酒など、帰りのお土産の目星もついでにつけておく。 観光地の土産物屋とは少し違う。地場の野菜や加工品が並ぶ棚には、秩父の日常がある。 9:45 ち...

鷲宮神社にて——境内に散らばる神々と、母の偉大さを感じた息子の物語

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  先日、以前このブログで書いた鷲宮神社に、実際に足を運んでみた。 敷地は思っていたよりずっと広く、社殿も堂々としていた。そして何より印象的だったのは、本殿だけでなく、境内のあちこちに数多くの境内社が点在していたことだった。一つ一つの社に手を合わせながら、ふと「これはもしかして、出雲神話をまるごと歩いて回っているのではないか」という気がしてきた。 境内に勢揃いした神話の登場人物たち 鷲宮神社の主祭神は、大己貴命(大国主神)、天穂日命、武夷鳥命。だが境内社を見て回ると、そこには国譲り神話に連なる神々がずらりと並んでいた。 素戔嗚尊——大己貴命の祖先にあたる神。八岐大蛇を退治したあの神が、出雲の血筋の始まりだったことを思うと、感慨深い。 諏訪大社の系統から、建御名方神。大己貴命の息子でありながら、国譲りの際に力比べで敗れ、諏訪まで逃げてそこに鎮まったという、神話の「敗者」だ。 そして鹿島神宮の武甕槌神。まさにその建御名方神を打ち負かし、国譲りを実現させた「勝者」である。敵味方だったはずの二柱が、同じ境内に並んで祀られている。神話の対立が、時を経て静かに和解し、統合されている——そんな景色を見た気がした。 八幡神社には応神天皇。これは出雲の血筋とは直接関係がない。だが後で調べてみると、応神天皇を神格化した八幡神は、源氏の氏神そのものだった。境内に残る源頼朝お手植えと伝わる「もっこく」の木、源義家の「駒つなぎのさくら」——これらの伝承と八幡神社は、バラバラの言い伝えではなく、河内源氏一族による代々の崇敬という一本の線でつながっていたのだと気づいた。出雲系の古い信仰の土台の上に、時代が下ってから武家の信仰が重なっていく。この神社の境内は、そんな信仰の地層が、埋もれずにそのまま露出している場所だったのだ。 そして、神明神社に祀られていた天照皇大神 境内社の中に、天照皇大神を祀る神明神社もあった。この時はまだ気づいていなかったのだが、後になって、この神様が実は主祭神・天穂日命の母神にあたることを知った。 天穂日命は、天照大神と素戔嗚尊の「うけい」の際、天照大神の勾玉から生まれた神とされる。国譲り神話では、地上の国を治めるべく最初の使者として、母である天照大神から出雲へ送り出された。ところが天穂日命は、出雲の主・大己貴命の人徳にすっかり心服してしまい、3年経っても高天原に何...