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12年に一度しか開かない扉がある──秩父午歳総開帳、真夏の徒歩巡礼へ

 先日、秩父に日帰り巡礼に行ってきた。 西武秩父駅に降り立ったのは朝8時14分。7月の朝とはいえ、盆地特有の空気がすでにじわりと重い。でも足取りは軽かった。今年は「午歳(うまどし)」。12年に一度しか訪れない、特別な年だから。 「午歳総開帳」とは何か 秩父には三十四か所の観音霊場がある。「西国三十三か所」「坂東三十三か所」と並んで日本百観音霊場のひとつに数えられる、由緒ある巡礼路だ。 その34の札所が、午歳に一斉にご本尊を公開する──それが「午歳総開帳」。開催は12年に一度。普段は厨子の奥に厳重に安置されていて、誰も目にすることのできないご本尊の観音様に、この期間だけ直接手を合わせることができる。 秩父札所の開創は元仁元年(1224年)、午年の3月18日とされている。だから総開帳は午歳に開かれる。約800年前から続く、この土地の約束だ。 2026年の開催期間は3月18日から11月30日まで。今回は真夏の7月に、西武秩父駅から歩いて回れるコースを選んだ。 8:25 野坂寺──蓮の花が迎えてくれた 駅から徒歩10分ほどで12番・野坂寺に着く。 重厚な黒い楼門をくぐると、まず目に飛び込んでくるのが蓮の花だ。7月はちょうど見頃で、境内の池が淡いピンクで埋まっていた。「花の寺」と呼ばれる所以がよくわかる。 享保年間(1716〜1735年)に建てられた楼門に並ぶのは、地獄の十王たちの像。入り口からしてただならぬ気配だが、境内に入ると一転、庭園が美しく整えられた静かな空間が広がる。 午歳総開帳では、本堂の前に回向柱が立てられ、五色の御手綱が結ばれていた。その綱を握ると、ご本尊・聖観世音菩薩と縁を結ぶことができる。列に並んで、綱をそっとつかんだ。不思議と、手のひらに温もりのようなものを感じた気がした。 9:05 祭の湯みやげ市──巡礼グッズはここで 野坂寺を出て、来た道を戻るように西武秩父駅方向へ。駅直結の「祭の湯みやげ市」に9時の開店に合わせて立ち寄る。 白衣、輪袈裟、納経帳。巡礼に必要なものはひと通りここで揃う。秩父銘仙のハンカチや、イチローズモルト、秩父麦酒など、帰りのお土産の目星もついでにつけておく。 観光地の土産物屋とは少し違う。地場の野菜や加工品が並ぶ棚には、秩父の日常がある。 9:45 ち...

鷲宮神社にて——境内に散らばる神々と、母の偉大さを感じた息子の物語

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  先日、以前このブログで書いた鷲宮神社に、実際に足を運んでみた。 敷地は思っていたよりずっと広く、社殿も堂々としていた。そして何より印象的だったのは、本殿だけでなく、境内のあちこちに数多くの境内社が点在していたことだった。一つ一つの社に手を合わせながら、ふと「これはもしかして、出雲神話をまるごと歩いて回っているのではないか」という気がしてきた。 境内に勢揃いした神話の登場人物たち 鷲宮神社の主祭神は、大己貴命(大国主神)、天穂日命、武夷鳥命。だが境内社を見て回ると、そこには国譲り神話に連なる神々がずらりと並んでいた。 素戔嗚尊——大己貴命の祖先にあたる神。八岐大蛇を退治したあの神が、出雲の血筋の始まりだったことを思うと、感慨深い。 諏訪大社の系統から、建御名方神。大己貴命の息子でありながら、国譲りの際に力比べで敗れ、諏訪まで逃げてそこに鎮まったという、神話の「敗者」だ。 そして鹿島神宮の武甕槌神。まさにその建御名方神を打ち負かし、国譲りを実現させた「勝者」である。敵味方だったはずの二柱が、同じ境内に並んで祀られている。神話の対立が、時を経て静かに和解し、統合されている——そんな景色を見た気がした。 八幡神社には応神天皇。これは出雲の血筋とは直接関係がない。だが後で調べてみると、応神天皇を神格化した八幡神は、源氏の氏神そのものだった。境内に残る源頼朝お手植えと伝わる「もっこく」の木、源義家の「駒つなぎのさくら」——これらの伝承と八幡神社は、バラバラの言い伝えではなく、河内源氏一族による代々の崇敬という一本の線でつながっていたのだと気づいた。出雲系の古い信仰の土台の上に、時代が下ってから武家の信仰が重なっていく。この神社の境内は、そんな信仰の地層が、埋もれずにそのまま露出している場所だったのだ。 そして、神明神社に祀られていた天照皇大神 境内社の中に、天照皇大神を祀る神明神社もあった。この時はまだ気づいていなかったのだが、後になって、この神様が実は主祭神・天穂日命の母神にあたることを知った。 天穂日命は、天照大神と素戔嗚尊の「うけい」の際、天照大神の勾玉から生まれた神とされる。国譲り神話では、地上の国を治めるべく最初の使者として、母である天照大神から出雲へ送り出された。ところが天穂日命は、出雲の主・大己貴命の人徳にすっかり心服してしまい、3年経っても高天原に何...

関東最古の出雲系神社、鷲宮神社で古代出雲を感じられるか

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 埼玉県久喜市。東京から電車で1時間ほどの、いたって普通の郊外の町に、「関東最古の大社」を名乗る神社がある。 鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)。アニメ「らき☆すた」の聖地として若い参拝者を集めることでも知られるこの神社は、実はその由緒を辿ると、出雲の神々にまで行き着く。 出雲といえば島根県。日本海側の、大和からも遠く離れたあの地の神々が、なぜ関東平野のこんな内陸の町で祀られているのか。そして、実際にこの神社を訪れれば、その「出雲らしさ」を肌で感じることができるのだろうか。 祭神は、国譲り神話の「あの神様」 鷲宮神社の主祭神は、天穂日命(あめのほひのみこと)と武夷鳥命(たけひなとりのみこと)、そして大己貴命(おおなむちのみこと)——大国主命の別名だ。 天穂日命は、古事記・日本書紀における「国譲り神話」に登場する神である。高天原(天つ神の世界)が地上の国(葦原中国)を治めようとした際、まず使者として出雲に送られたのがこの神だった。ところが天穂日命は、大国主神の人徳にすっかり心服してしまい、3年経っても高天原に何も報告しなかったと伝えられる。いわば「任務放棄」の神様なのだが、後世的にはこれが出雲との深い結びつきを示す物語として語り継がれ、天穂日命の子孫は代々出雲国造として出雲大社の祭祀を司ることになった。 鷲宮神社の由緒では、その天穂日命と子・武夷鳥命が、部族28人を率いてこの地にやってきて、大己貴命を祀る神崎神社を建てたのが始まりとされている。時期は「神代の昔」——つまり、暦の上には存在しない神話的な時代としか記されていない。 「神代」を史実の年代に置き換えると ここが面白いところだ。「神代」という表現は、実は何も語っていないに等しい。だが、これを実際の歴史の流れに置き換えて考えることはできる。 以前、常陸国(茨城県)の神社を巡ってこんな記事を書いたことがある。 「茨城の神社が語る古代常陸の三つの顔」 。そこでは、常陸の古代史を三つの層——縄文・弥生の先住文化(日高見国)、弥生後期から古墳前期にかけての出雲系勢力の浸透、そして5世紀以降の大和朝廷による東国進出——として整理した。 その第二層、出雲系勢力の浸透期は、考古学的には弥生時代後期から古墳時代前期、およそ2〜4世紀頃とされる。出雲特有の「四隅突出型墳丘墓」の影響が北陸...

築地大橋のたもとから上流を眺めて、千年の時の流れを感じた

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 築地大橋に立つと、隅田川は静かに上流へと続いている。海から最も近いこの橋から眺める川面を見ながら、ふとこの川がたどってきた長い歴史に思いを馳せた。 平安貴族の憧れの地だった隅田川 隅田川がはじめて文学の舞台として脚光を浴びたのは、平安時代初期に成立した『伊勢物語』第九段「東下り」だった。 京を離れ東国へ下る主人公(在原業平がモデルとされる)は、隅田川のほとりで渡し守から「都鳥」という白い鳥について尋ねられる。その名にちなんで詠んだのが、 「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」 という歌である。「都」の名を持つ鳥に、都に残してきた愛する人の安否を問いかける――この一首に同行者たちは皆涙したという。 実際に在原業平が東国まで下った記録はなく、物語上の創作とも言われている。それでも、この歌は後世に大きな影響を与え、隅田川は「都鳥」「言問」という言葉とともに和歌に繰り返し詠まれる歌枕となった。当時実際に隅田川を訪れた貴族はほとんどいなかったはずなのに、物語の力だけで「都人の憧れの地」になったというのは、なんとも興味深い。後の「言問橋」という橋名にも、業平という地名にもこの故事は今なお残されている。 江戸時代、庶民の行楽地へ 時代が下り江戸に入ると、隅田川は和歌の世界の存在から、実際に多くの人々が訪れる賑やかな名所へと姿を変えていく。 向島の三囲神社は文人墨客の集う場所となり、長命寺門前で売られた桜餅は隅田川名物として大変な人気を博した。 なかでも墨堤の桜並木は江戸有数の花見の名所となった。8代将軍徳川吉宗が享保年間に植樹を進めたとされ、花見シーズンには船で川を上り下りしながら両岸の桜を愛でるという遊び方が定着した。夏には両国橋周辺で納涼船や花火が楽しまれ、これが現在の隅田川花火大会の起源となっている。 こうした隅田川の賑わいを今に伝えているのが、歌川広重の『名所江戸百景』である。両国橋の花火や、大はしあたけの夕立、隅田川沿いの桜など、川辺の四季折々の情景が浮世絵として描き出され、江戸庶民の隅田川への親しみを視覚的に物語っている。 また、神田雉子町の名主であった斎藤月岑が、祖父・父の代から親子三代にわたって編纂を続け、天保5年(1834年)から同7年(1836年)にかけて刊行した『江戸名所図会』...

池のほとりで感じる、数千年の歴史ロマン――六本木ヒルズ・毛利庭園にて

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 東京のど真ん中、六本木ヒルズの喧騒をほんの少し離れると、静かな池が広がる庭園がある。その名も 毛利庭園 。 今日はここで、しばらく池のほとりに腰を落ち着けてみた。水面に映る緑を眺めていると、ふとこの場所が背負っている歴史の重さに気づき、気がつけば遠い時代へと思いを馳せていた。 なぜここに「毛利」庭園があるのか 六本木に毛利?と思う人も多いかもしれない。実はこの土地、江戸時代には長州藩・ 毛利家の下屋敷 があった場所なのだ。広大な敷地には池泉回遊式の大名庭園が広がっていたという。 その後、明治の陸軍用地、戦後のテレビ朝日敷地を経て、2003年の六本木ヒルズ開発の際に、かつての庭園の面影を復元する形で整備されたのがこの毛利庭園だ。中央の池は江戸時代の池をそのまま活かしているとも言われる。 名前だけでなく、水そのものにも歴史が宿っている場所なのだ。 毛利家のルーツをたどる旅 では、その毛利家はどこから来たのか。ここからが、歴史ロマンの本番である。 毛利氏の祖先は 大江広元 (おおえのひろもと)。彼はもともと京都の公家・官人で、卓越した行政手腕を持つ文官だった。源頼朝に招かれて鎌倉に下向し、幕府の政所別当として鎌倉幕府の屋台骨を支えた人物だ。 その大江広元の四男・ 大江季光 が、相模国(現在の神奈川県厚木市あたり)の「毛利荘」を領したことで「毛利」を名乗り始めた。「毛利」という名字の発祥は、実は山口でも広島でもなく、神奈川県なのである。 その後、毛利氏は安芸国(広島県)へと移り、戦国時代に 毛利元就 が中国地方の覇者へと成長。そして長州藩(山口県)の藩主として幕末まで続き、あの 明治維新 の中心勢力となっていく。 さらに古へ――野見宿禰という浪漫 しかし、歴史をさらに遡ると、もう一つのロマンが待っている。 大江氏は**土師氏(はじし) の後裔とされ、その土師氏の祖として伝わるのが、古墳時代の人物 野見宿禰(のみのすくね)**だという説がある。あくまで「説」ではあるが、もしそれが本当だとしたら――。 野見宿禰といえば、力士にして 相撲の神様 。垂仁天皇の時代に当麻蹴速(たいまのけはや)と力比べをしたという伝説の人物で、今も相撲界にその名が生き続けている。また、埴輪の創始に関わったとも伝えられる。 その...

茨城の神社が語る古代常陸の三つの顔

 茨城県を旅すると、不思議なことに気づく。鹿島神宮のような大和朝廷ゆかりの神社がある一方で、出雲の大国主を祀る大洗磯前神社があり、さらに奈良の古代氏族・多氏にまつわる神社も各地に点在している。なぜ、こんなに多様な神々が一つの地に集まっているのだろうか。 実はこの謎を解く鍵が「三層構造」にある。常陸国(現在の茨城県)の古代史は、まるで地層のように三つの時代が重なり合っており、その痕跡が今も神社として残っているのだ。 第一の顔:日高見国——縄文・弥生の先住文化圏 最も古い層は「日高見国(ひたかみのくに)」と呼ばれる先住の世界だ。 『常陸国風土記』には「この地はもと日高見の国なり」と明記されている。大和朝廷が「常陸国」という名をつける以前、茨城の地には独自の縄文・弥生文化圏が広がっていた。 日高見国は単なる辺境ではなかった。『日本書紀』や『常陸国風土記』に「国」として記されており、長身で容姿端麗、勇敢な人々が暮らす地として大和側からも一目置かれていた。東国は鉄の産地でもあり、独自の太陽信仰を持っていたとされる。 現在の茨城には、この最古の層を偲ばせる神社が残っている。大甕神社(日立市)はその代表例で、天津甕星(あまつみかぼし)という星神を祀るが、この神はヤマト王権への最後の抵抗者とも伝えられる土着の神だ。 第二の顔:出雲の国造り——大国主が渡ってきた海 次の層は、弥生時代後期から古墳時代前期(2〜4世紀頃)にかけての「出雲系勢力の浸透」だ。 大洗磯前神社(大洗町)と酒列磯前神社(ひたちなか市)の由緒に、この歴史が刻まれている。平安時代の歴史書『日本文徳天皇実録』(856年)には、大己貴命(大国主)と少彦名命が常陸の海岸に降臨し、こう告げたと記されている。 「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造り訖へて、去りて東海に往きけり。今民を済わんが為、亦帰り来たれり」 ——「われはかつてこの国を造り、東の海に去っていたが、今また民を救うために帰ってきた」というのだ。 この「かつてこの国を造った」という言葉が示すのは、出雲の神々(あるいはそれを信仰する人々)が、大和朝廷よりずっと以前から常陸の地に根ざしていたことだ。 考古学的にも、弥生時代後期から古墳時代にかけて、出雲特有の「四隅突出型墳丘墓」の影響が北陸から関東方面...

旧11宮家と「男系男子」 ——全員の先祖が同じって、本当?

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  1947年に皇籍を離脱した11の宮家。創設した天皇はそれぞれ違うのに、 「男系男子」で辿ると全員が同じ先祖にたどり着くといわれます。 いったいどういうことなのか、図と表でやさしく解説します。 🗓 2026年6月 📖 約5分で読めます 目次 「男系男子」ってどういう意味? 旧11宮家とは?1947年に何があったか 各宮家の「表向きの祖先」天皇一覧 男系で辿ると全員が同じ先祖になる理由 現在の天皇陛下との関係 この話が今なぜ重要なのか 01 「男系男子」ってどういう意味? まず言葉の整理から。ニュースでよく耳にする 男系男子 とは何でしょうか? 「男系」=父方だけでつながる血統 男系 とは、父・祖父・曾祖父……と、 父方の系譜だけをたどって 先祖にたどり着けることを指します。 途中に一度でも「母方のつながり」が入ると、男系とはいいません。 生物学的なイメージでいえば、 Y染色体を引き継いでいる かどうか、と言い換えることもできます(Y染色体は父から息子へのみ受け継がれます)。 「男系男子」=父方でつながる男性 男系男子 とは、男系でつながっている 男性 のことです。 現行の皇室典範では「皇位は男系の男子が継承する」と定められており、 この「男系男子」が皇位継承の条件になっています。 具体例で考えてみましょう たとえばAさんの父親が天皇家の男系子孫であれば、Aさん自身が女性であっても 「男系の子孫」です。しかし皇位を継げる「男系男子」ではありません。 一方、Aさんの兄は「男系男子」になります。 02 旧11宮家とは?1947年に何があったか 第二次世界大戦後、GHQ(連合国最高司令部)の占領政策のもとで 皇室制度が大きく変わりました。1947年10月14日、 11の宮家・計51名の皇族が一斉に皇籍を離脱 しました。 これが「旧11宮家」です。 離脱した宮家 11家 一斉に皇籍を離れた 離脱した人数 51名 一般国民となった 離脱の年 1947年 昭和22年10月14日 なぜ離脱することになったの? 主な理由は3つです。①GHQが皇室を縮小する方針を採ったこと、 ②広範な皇族を維持するための財政的な負担が大きかったこと、 ③新憲法体制に合わせた民主化・簡素化の流れがあったこと。 離脱した方々はその後、一般の日本人として生活し、 現在もその子孫が各地に存在...