分け御霊は、北を向く――那珂市に、もうひとつの鹿島があった
先月、「“国譲り神話の現場”だったかもしれない、茨城の神社巡り」という記事を書いた。あのとき訪ねたのは、那珂市静の静神社だった。建葉槌命が、最後まで服従しなかった星の神・香香背男を平定した拠点として紹介した神社だ。
実はその同じ那珂市に、もうひとつ気になる神社がある。菅谷(すがや)にある鹿島神社――地元では「菅谷鹿島様」と呼ばれているらしい。名前からしてすでに察しがつくと思うが、この神社、鹿嶋市の本家・鹿島神宮と、驚くほど共通点が多いのだ。
北を向いた参道。祀られているのは武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)――鹿島神宮の御祭神そのもの。同じ那珂市の中で、国譲り神話の「勝者側」の物語が、二重に、しかも別々の経緯で根を張っていたことになる。
そもそも、なぜ鹿島神宮は「北向き」なのか
菅谷鹿島神社の話をする前に、本家・鹿島神宮の話をしておきたい。
日本の神社の多くは、東か南を向いて建っている。ところが鹿島神宮は違う。参道は西から東へまっすぐ伸びているのに、社殿はその参道の途中で右(南)から接続する特殊な位置関係にあり、このため社殿は北面するという、かなり珍しい配置になっている。 Wikipedia
理由として伝えられているのは、常陸国がかつて大和朝廷にとっての最前線だったから、というものだ。大和朝廷は東北の蝦夷を討伐するための重要な軍事拠点として、鹿島神宮と香取神宮を奉ったとされ、鹿島神と香取神を各地に祀っていくたびに、鹿島神宮の本殿が北側を向いているのは、これらを鎮護するためとも言われている。 shrineheritager
つまり本殿そのものが、今もまだ北の脅威に背を向けず、睨みを利かせ続けているという設計思想らしい。ちなみに本殿内部の神座は、内陣の南西隅にあって東を向いているというねじれた構造になっており、これは出雲大社本殿の神座配置と共通する構造だとも指摘されている。国譲り神話の「勝った側」の社殿が、「譲らせた側」の出雲大社と、内部構造でどこかつながっている――というのも、考え出すと夜も眠れなくなりそうな話だ。 hidemichitanaka
那珂市菅谷に、北を向いた分け御霊があった
さて、本題の菅谷鹿島神社である。
鎮座地は那珂市菅谷2345。祭神はもちろん武甕槌大神、愛称は「鹿島さま」。御由緒によれば、そのはじまりは大同年間(810年頃)、水戸線・上菅谷駅近くの「両宮」という場所に鎮座したのが最初だという。
ここまでなら、よくある古社の由緒だ。面白いのはこの先である。
江戸時代、水戸藩では「一村一社制」という神社整理の政策が敷かれた。ひとつの村にひとつの神社だけを残し、他は統合するというものだ。この政策を進めたのが、あの水戸藩主・徳川斉昭(とくがわ なりあき)だった。
そして斉昭の命により、この菅谷の神社は――わざわざ本家である鹿嶋の鹿島神宮から、あらためて御分霊を迎え直している。安政4年(1857年)正月、現在の場所(北之内)に新たに鎮座し直したのだ。
大同年間の創建から、実に1000年以上を経て、幕末の水戸藩がもう一度、本家から霊を迎え直す。これは単なる統廃合ではなく、「この土地に、正真正銘の鹿島の神威をもう一度きちんと据え直す」という、ある種の再認証の儀式だったのではないかと思う。
なぜ、わざわざ北向きにしたのか
そしてこの神社、参道が北を向いている。
もちろん地形や敷地の都合という可能性もゼロではない。しかし、水戸藩という土地柄を考えると、これが偶然だとは思いにくい。水戸藩は江戸期を通じて尊皇思想・国学が盛んな土地であり、鹿島神宮の由緒や意味づけについても、当時すでに広く知られていたはずだ。
本家の鹿島神宮が北を向いているのは、東北の蝦夷を鎮めるためだと伝えられている。それをわざわざ踏襲して分霊を迎えたのだとすれば、菅谷の人々は――あるいは斉昭は――「北を鎮める神」という鹿島神宮の性格そのものを、そっくりこの地に移植しようとしたのではないだろうか。
那珂市という、常陸国のなかでもやや北寄りの内陸部に、もう一つの「北を睨む鹿島」を置く。前回の記事で触れた「常陸国は、大和と蝦夷の境界領域であり続けた」という話を思い出すと、この菅谷鹿島神社もまた、その境界性の記憶をずっと引き継いできた場所なのかもしれない。
祭りの中に残る、もうひとつの記憶
境内に伝わる文化財にも、少し目を向けておきたい。
御神宝として伝わる「藤原祐光作」の大太刀は、長さ134センチ、重さ4.7キロという大ぶりなもの。安政3年製の六角神輿、那珂市指定文化財の三十六歌仙額など、地域の信仰の厚さを物語る品々が今も残っている。
なかでも面白いのは、8月15日に行われる「大助祭(おおすけまつり)」だ。3年に一度、提灯祭や特殊神事が催され、山車9台が社頭に勢揃いするという。御由緒には、この大助祭がもともと流行病の平癒を強く願う祭だったとも記されている。
蝦夷を鎮めるための北向きの神が、時代が下ると、疫病を鎮める神としても頼られるようになる。「鎮める」という一点において、外敵も疫病も、この神にとっては同じ守備範囲だったということなのかもしれない。
おわりに
静神社が「国譲り神話の勝者の拠点」だとすれば、菅谷鹿島神社は、いわば本家の意志を、1000年の時を越えて改めて呼び寄せた場所だと言えるかもしれない。
同じ那珂市の中に、経緯もかたちもまったく違う二つの"北向きの信仰"が眠っている。そう考えると、この土地を歩くときの目線が、また少し変わってくる。
あなたの町の神社は、どちらを向いているだろうか。もし北を向いた社があったら、その由緒を少し覗いてみてほしい。そこにもきっと、誰かが遠い昔に運んできた、小さな物語が眠っているはずだ。
前回の記事との対応も含めて構成しましたが、事実関係(安政4年・大同年間などの年号や斉昭の一村一社制など)は神社庁ページの由緒に基づいています。必要であれば、写真の挿入位置やタイトル案のバリエーションも出せます。
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