謎が多い天皇だからこそ祀られた応神天皇
先日、近所の神社、富岡八幡宮の由緒書きをなんとなく眺めていて、手が止まった。
祭神、応神天皇。
考えてみれば、この名前を見ない土地はほとんどない。大きな街にも、田舎の集落にも、必ずと言っていいほど八幡神社がある。全国におよそ四万社ともいわれる、日本最大級の信仰ネットワークだ。
けれど、いざこの応神天皇という人物について調べ始めると、驚くほど「わからないこと」だらけだった。いつ即位したのかも、本当の父親が誰なのかも、書物によって話が食い違う。渡来人だったのではないか、という説さえある。
正体のはっきりしない人が、なぜこれほどまでに、日本中で手厚く祀られる神になったのだろう。今回はその足取りを追ってみたい。
第1章 二つの史書、二つの年代
応神天皇の在位年は、『日本書紀』と『古事記』で、実はまったく一致しない。
『日本書紀』は律儀に「応神天皇元年」から「四十一年」まで、年号を立てて記録している。西暦に直すと270年から310年ごろとされ、崩御の年齢は110歳。
一方『古事記』は、そもそも即位年という形式そのものを持たない。書かれているのは、崩御の年を干支で示した「甲午年」の一行だけだ。享年は130歳。日本書紀の110歳と比べて、20歳も開きがある。
なぜこんな食い違いが生まれるのか。
有力な説のひとつに、「辛酉革命説」がある。中国の讖緯思想では、辛酉の年、それも1260年に一度巡ってくる辛酉の年に、大きな革命が起こるとされていた。日本書紀の編纂者は、推古天皇9年(西暦601年)が辛酉に当たることに目をつけ、そこから1260年遡った辛酉の年を、初代神武天皇の即位年に設定した。それが紀元前660年だ。
初代をそれだけ古く見せかけるためには、歴代天皇の年代も、全体を引き伸ばさなければつじつまが合わない。特に応神天皇のあたりは百済の史料と年代が重なる部分があり、実年代よりおよそ120年――干支にして二巡分――古く動かされているのではないか、と指摘する研究者は少なくない。
つまり応神天皇は、実際には4世紀末から5世紀初め頃の人物だったのではないか、というのだ。
史書の年号は、時に「事実の記録」ではなく「政治的な意図の産物」でもある。 そのことを、応神天皇の紀年ほどはっきり教えてくれる例も少ない。
第2章 本当の父は誰なのか
年代だけでなく、出自そのものにも謎がまとわりつく。
日本書紀によれば、応神天皇の父は第14代仲哀天皇、母は神功皇后。ところが、仲哀天皇が香椎の地で亡くなってから、神功皇后が北九州で応神天皇を産むまで、13ヶ月もの間が空いている。当時の暦の解釈によってはさらに長い日数とする説もあり、いずれにせよ、普通の妊娠期間としては説明のつかない長さだ。
この不自然さが、古くから「本当の父は仲哀天皇ではないのではないか」という憶測を呼んできた。
候補として名前が挙がるのは、たとえば武内宿禰。仲哀天皇の崩御の場に居合わせた重臣で、成務・仲哀・応神・仁徳の四代に仕えたという伝説的な長寿の人物だ。あるいは、住吉大社に伝わる神代記には、住吉大神と神功皇后の間に生まれた子が応神天皇であるとする記述もあるという。
さらに踏み込んだ話もある。出雲王家の末裔とされる富家に伝わる、いわゆる「出雲口伝」だ。そこでは、神功皇后が実際に産んだ子は幼くして亡くなり、後継者を絶やせないために、上毛国(今の群馬県)の国造の子、竹葉瀬ノ君という人物が身代わりに立てられた――それが応神天皇の正体だ、と語られているという。
正史とはまるで違う系譜が、こうして今も語り継がれている。
どれが正しいかは、私にはわからない。 ただ、これほど父親をめぐる異説が積み重なる天皇も珍しい、ということだけは確かだと思う。
第3章 海の向こうから来た王、という想像
出自の謎は、もう一段階、大きなスケールでも語られてきた。
戦後まもない1948年、東洋史学者の江上波夫は、ある大胆な仮説を発表した。日本列島に統一国家を築いたのは、東北アジアからやってきた騎馬民族で、それは4世紀末から5世紀前半、応神天皇の時代に重なる――いわゆる「騎馬民族征服王朝説」である。
古墳時代の副葬品が、後期になると急に馬具など大陸的なものへと様変わりすること。記紀に渡来人の記述が多いこと。これらを根拠に、江上は日本国家の起源を海の外に求めた。歴史学者の水野祐はこの説をさらに進め、大陸から来た応神天皇が、それまでの崇神天皇の王朝を打ち倒したのだ、という説まで唱えている。
この説は発表当初から大きな論争を呼び、民俗学者の柳田国男や折口信夫らからも批判を浴びた。今では、古墳文化に江上の言うような断絶はなかったとする考古学的な反証が積み重なり、学界の主流としては受け入れられていない。
それでも、応神天皇を「海を渡ってきた王」として語りたくなる誘惑は、今も形を変えて残っている。百済の王子・昆支王こそが応神天皇その人だ、とする説もそのひとつだ。
史実かどうかはさておき、これほど遠くから来た王として想像される天皇も、他にはあまりいない。 それだけ、応神天皇という存在の輪郭が、もともと曖昧だったということなのかもしれない。
第4章 宇佐の地で、神になる
これだけ出自の定まらない人物が、どうやって「神」になっていったのか。
始まりは、九州・宇佐だった。宇佐神宮の由緒では、571年、応神天皇の神霊である八幡大神がこの地に現れたと伝えられている。ただし宇佐には、それ以前から比売大神という古い地主神が祀られていた記録も残っていて、渡来系氏族の関与も指摘されている。八幡神は最初から「応神天皇の神」として生まれたのではなく、在地の信仰、渡来の要素、仏教、そして朝廷の権威が、少しずつ重なり合って形づくられた神格だったようだ。
八幡神が、一地方の神から国家的な存在へと押し上げられたきっかけは、奈良時代に九州で相次いだ動乱だった。720年の隼人の乱では、八幡神が神輿に乗って軍を導いたと伝えられ、これが「神輿」の起源ともいわれる。さらに769年、僧・道鏡が皇位を狙った事件では、宇佐八幡宮が下した神託が皇統の危機を救ったとされ、八幡神は伊勢神宮に次ぐ「国家第二の宗廟」という、破格の地位を得ることになる。
曖昧な出自の人物が、国家の危機のたびに「頼れる神」として名乗りを上げていく。 その積み重ねが、応神天皇を単なる一天皇から、特別な神へと押し上げていったのだと思う。
第5章 源氏の神、そして日本中の神へ
決定的な転機は、京都・石清水八幡宮への勧請だった。国家第二の宗廟という地位を得たこの神社を、氏神として選んだのが源氏である。
そして源頼朝が、鎌倉に鶴岡八幡宮を建てて源氏の守護神とした。これによって、頼朝に従う御家人たちもこぞって参拝するようになり、八幡大神は武家全体の守護神という性格を帯びていく。
ここから先の広がり方が、実に日本的だと思う。
神社には「勧請」という仕組みがある。総本社から神霊を分け、まったく別の土地に新しい神社を建てることができる制度だ。鎌倉から室町、戦国へと武家の世が続く間、新しく領地を得た武士たちは、こぞって自分の城下や領国に八幡神を勧請していった。新しい領主が現れるたびに、新しい八幡社が生まれる。その連鎖が数百年続いた結果が、今の日本各地に残る、数万社という数字なのだろう。
おわりに
近所の由緒書きの前で立ち止まってから、ずいぶん遠くまで歩いてきてしまった気がする。
在位年も、実の父も、出自の民族さえもはっきりしない天皇。史書を読めば読むほど、輪郭がぼやけていく人物。
けれど、だからこそなのかもしれない、と今は思う。
隼人の乱でも、道鏡事件でも、源氏の旗印としても――応神天皇は、その時代その時代の「頼りたい何か」を映す鏡のように、姿を変えながら祀られ続けてきた。実像がはっきりしないからこそ、後の世の人々が、自分たちの必要とする神の姿を、そこに重ねることができたのではないだろうか。
謎が多いということは、空白が多いということでもある。そしてその空白に、千年以上にわたって、いろんな時代のいろんな人が、それぞれの祈りを書き込んできた。
あなたの町の八幡さまにも、きっとそんな重なりの跡が残っているはずだ。今度通りかかったら、由緒書きを覗いてみてほしい。
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