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Showing posts from August, 2026

消えていく地名に、私たちができること

  はじめに——「海上さん」との出会いから始まった旅 先日、「海上(うなかみ)」という珍しい苗字の方に出会いました。何気ない自己紹介から始まったその会話は、思いがけず私を、地名という小さな、けれど途方もなく奥深い世界へと引き込んでいきました。 調べてみると、この苗字は千葉県旭市——かつての海上郡海上町——にルーツを持つことがわかりました。平安時代、千葉一族がこの地を領し、「海上」を名乗ったのがはじまりです。町村合併で「海上町」という行政区画は2005年に姿を消しましたが、「旭市海上」という大字(おおあざ)として、その名前は今もしっかりと住所の中に生き続けています。 このやり取りを通じて、私はあることに気づかされました。地名というのは、単なる記号ではない。それは何百年、何千年という時間をかけて積み重ねられた、土地の記憶そのものなのだと。 そして同時に、もう一つの事実にも直面しました。すべての地名が、海上さんのように幸運だったわけではない、ということです。 第1章 消えた地名、生き残った地名 日本には、平成の大合併(1999〜2010年頃)で数多くの市町村が姿を消しました。多くの場合、旧町村名は「大字」として住所に残ります。しかし、そうでないケースも確かにあります。 たとえば「郡(ぐん)」の名前です。行政機能を持たないため大字のような救済措置がなく、そのまま住所表記から消えてしまうことが少なくありません。平成の大合併だけで、郡の数はおよそ3分の2にまで減りました。 さらに厄介なのは、都市部で行われる「住居表示」による地名の書き換えです。合併とは別の制度ですが、「鍛冶町」「鷹匠町」のような、その土地の歴史や職業を伝える地名が、「中央一丁目」のような無機質な地番に置き換えられてしまう。合併以上に、静かに、しかし根こそぎ地名の記憶を奪っていく仕組みです。 第2章 地名は、時に「警告」だった ここが、私が最も心を動かされた部分です。 昔の地名の中には、その土地の危うさを後世に伝えるために付けられたものがあります。「蛇」がつく地名は、土石流や崖崩れを蛇に見立てたものだと言われています。名古屋市にはかつて「蛇崩(じゃほう)」という地名があり、郷土資料には土砂災害を示唆する記述が残っていました。「カワチ」「ナダ」「フカ」「リュウ...

“国譲り神話の現場”だったかもしれない、茨城の神社巡り

  はじめに——なぜ茨城に「国譲り」の痕跡が残っているのか 『日本書紀』の国譲り神話といえば、出雲での大国主神の国譲りが有名です。しかしそのクライマックスの少し手前、経津主神・武甕槌神という二柱の武神が国土平定のために各地を巡る中で、ただ一柱だけ最後まで服従しなかった神がいたと伝えられています。星の神、香香背男(かかせお、別名・天津甕星)です。 そしてこの香香背男を最終的に服従させたのが、倭文(しとり)の神・建葉槌命(たけはづちのみこと)でした。 面白いのは、この神話の舞台がどうやら茨城県北部、常陸国だったらしいということです。実際に建葉槌命・香香背男ゆかりの神社が、今も那珂市や日立市に残っています。今回は「ここが本当に国譲り神話の現場だったかもしれない」と思いを馳せながら、この一帯を巡ってみようと思います。 あわせて、茨城(常陸国)にはもう一つ別の平定伝説もあります。『常陸国風土記』に記された、建借間命(たけかしまのみこと)による国栖(くず)平定の物語です。これは記紀の神話というより、地誌に残る半歴史的な伝承ですが、「大和の勢力がこの地の先住勢力を服従させた」という構図は共通しています。この記事では主に建葉槌命・香香背男の神話ゆかりの神社を中心に紹介しつつ、常陸という土地全体が持つ「境界領域」としての性格にも触れてみたいと思います。 静神社(那珂市)——勝者・建葉槌命の本拠地 まず訪れたいのが、那珂市静に鎮座する静神社です。 祭神 :建葉槌命 社格 :常陸国二宮。鹿島神宮と並び称される、東日本有数の古社 ゆかり :経津主神・武甕槌神に最後まで服従しなかった香香背男を、服従させたのがこの建葉槌命とされています 建葉槌命は倭文氏の祖神であり、織物・武運・芸能の神として古くから信仰されてきました。長い参道と階段を上っていくと、鬱蒼とした社叢に包まれた境内に至ります。「東国平定を成し遂げた神の本拠地」というイメージそのままの、静かで厳かな空気が漂う場所です。 参拝の際は、ここが単なる古社というだけでなく、「国譲り神話の勝者側の拠点だったかもしれない」という視点を持ってみると、社殿や森の見え方も少し変わってくるかもしれません。 大甕神社(日立市)——敗者・香香背男が封じられた岩 静神社から車で30分ほど、日立市...

戦国の山城に上って感じたこと

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 長野県上田市にある砥石城(戸石城)に登ってきた。 「登城」というより、正直「登山」という言葉がしっくりくる道のりだった。麓の陽泰寺から続く急な坂道を、息を切らしながら一歩ずつ上る。整備されているとはいえ、決して楽な道ではない。この城が、あの武田信玄でさえ一ヶ月以上力攻めしても落とせなかった――そう聞いていたが、実際に自分の足で登ってみて、ようやくその意味が腑に落ちた気がする。 難攻不落は、地形そのものだった 砥石城は天文19年(1550年)、武田信玄が攻めあぐねた末に大敗を喫した城として知られている。世に言う「砥石崩れ」だ。横田備中守をはじめ千人ほどの兵が命を落としたと伝わる、信玄生涯最大の負け戦。 だが実際に急坂を登ってみると、この結果は必然だったようにも思える。石垣や堀を人工的に築くまでもなく、山そのものが最大の防御施設になっている。当時の武田軍の兵士たちは、この坂道を鎧兜を身にまとい、矢や石を浴びながら登らなければならなかったのだ。そう考えると、想像するだけで足がすくむ。 翌年、この城を落としたのは力攻めではなく、真田幸隆による調略だったという。正面から挑んでも消耗するだけの地形――それを見極め、内部から切り崩すという判断を下した幸隆の合理性にも、山を登りながら深く納得させられた。 山頂からの景色が語るもの 苦労して登り切った山頂からは、上田の市街や塩田、東部、佐久方面まで見渡せる、素晴らしい景色が広がっていた。 この眺望こそが、砥石城が要衝であった理由なのだと実感する。見渡す限りの土地の動きを把握できること。狼煙による情報伝達network。そして、高い場所に城を構えること自体が、麓の人々に対する権威の象徴でもあったのだろう。 村上氏、武田氏、真田氏――支配者が入れ替わるたびに、この景色を見つめていた武将たちの思いは、どのようなものだったのだろうか。自分の領地を守り抜こうとする執念か、それとも新たに手にした土地を見渡す高揚感か。 城跡が語りかけてくるもの 砥石城の周辺を歩くと、驚くほど多くの山城跡が点在していることに気づく。真田本城(松尾城)、天白城、矢沢城……。上田盆地を取り囲む山々には、いくつもの砦や城が築かれていた。 考えてみれば当然のことなのかもしれない。信濃と上野を結ぶ街道が通る交通の要衝で...