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Showing posts from October, 2026

追記:抜け参りと関所

一生に一度の伊勢へ――江戸の庶民が"あこがれ"に払った代償  記事を公開したあと、ふと疑問が湧いた。 抜け参りの人たちは、関所をどうやって越えたのだろう。 江戸時代の旅には「手形」が要る。 主人にも親にも黙って、着の身着のままで飛び出した人たちが、そんなものを持っていたはずがない。 調べてみると、そこには少し意外な「建前と本音」の世界があった。 手形は二種類あった まず、関所で見せる「関所手形」と、身元を証明する「往来手形」は、別のものだったという。 往来手形は、旦那寺や村の庄屋が出す、いわば身分証。 旅に出るなら原則として必要とされていた。 ところが関所手形のほうは、 庶民の男性なら必ずしも必須ではなかった らしい。 手形を持っていなくても、取り調べで怪しいところがなければ通してもらえる。 少なくとも、制度の上ではそういうことになっていたそうだ。 江戸の宿屋で、手形をもらう きちんと手続きをする旅人の側にも、抜け道のような慣行があった。 東国から伊勢へ向かう人の多くは、いったん江戸で一、二泊する。 その 江戸の旅籠で、関所に出す手形を発行してもらっていた というのだ。 幕府はこうした「途中手形」を禁じていた。 それでも旅日記には、宿で手形をもらった話がたびたび出てくるという。 規則は規則。 けれど現場は、旅人を通すために回っていた――そんな光景が目に浮かぶ。 何百万人を、止められるか では、抜け参りの人たちは。 奉公人や子どもが手形も持たずに加わる「抜け参り」があったことは、各地の資料にも記されている。 おかげ参りの年には、何百万という群衆が街道にあふれた。 その一人ひとりを、関所や番所が厳密に改められただろうか。 そしてそもそも、彼らが目指していたのは お伊勢さん である。 信仰の旅を止めることに、役人たちもどこかためらいがあったのではないだろうか。 関所のない道 もうひとつ、見落とせないことがある。 文政13年のおかげ参りは、阿波国から始まったとされる。 群参の中心は、四国や近畿など西日本の人々だった。 箱根や新居のような厳しい関所を越えるのは、主に東から来る旅人だ。 西から伊勢へ向かう道には、そうした大関所はほとんどない。 抜け参りが成り立った理由のひとつは、 そもそも関...

一生に一度の伊勢へ――江戸の庶民が"あこがれ"に払った代償

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 今年の1月、ひとつの小さなニュースが目に留まった。 奈良県生駒市が、 一本の竹の柄杓 を市の文化財に指定したという。 高さはわずか6センチあまり。 外側には墨で「大神宮」「おかげ参り」、そして「和州俵口村文七」と書かれているそうだ。 文政13年(1830)。 俵口村の文七という人が、伊勢へ向かう道中で手にしていた柄杓である。 なぜ、柄杓なのか。 調べていくうちに、江戸の庶民にとって伊勢参りがどれほど遠く、どれほど大変で―― それでも、どれほど焦がれた旅だったのかが見えてきた。 「せめて一生に一度でも」 「伊勢へ行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」 伊勢音頭にそう唄われたように、お伊勢参りは江戸の人々のあこがれだった。 世の中が落ち着き、五街道が整い、宿場町がにぎわうようになった江戸時代。 庶民もようやく「旅」というものを手にした。 とはいえ、江戸から伊勢までは歩いて片道およそ15日。 往復すればひと月がかりの大旅行である。 旅費については諸説あるが、今の感覚に直せば 数十万円規模 だったとも言われる。 日々の暮らしで精一杯の庶民に、ひとりでポンと出せる金額ではなかった。 村じゅうで貯めた、ひとりぶんの旅 そこで生まれたのが「伊勢講(いせこう)」という仕組みだ。 村の仲間が講をつくり、少しずつお金を出し合って旅費を積み立てる。 そして、くじで選ばれた者が 村の代表として 伊勢へ向かう。 当たらなかった人は、また次の年に。 順番が回ってくるまで、何年も積み立てを続けることになる。 凶作の年も、暮らしが苦しい年も。 途中で抜ければ、それまでのお金も、村での立場も失いかねない。 伊勢講の積立金を管理していた者が使い込んだり、持ち逃げしたり―― そんなトラブルもあったと伝えられている。 「今年こそは」と願いながら、くじの日を待つ。 その日を迎えられないまま、年老いていった人もいたのではないだろうか。 当たってからが、また大変 ようやくくじに当たった代表者にも、気楽な旅が待っていたわけではない。 背負っていたのは、 村じゅうの期待 だった。 講の仲間全員のぶんのお札を受けてくること。 留守中に餞別をくれた人たちへ、土産を買って帰ること。 道中では、伊勢神宮の御師(おし)への初穂料や、...

名もなき神領民たちの550年――伊勢の町が守ってきたもの

 6月に、伊勢神宮の記事を書いた。 途絶えかけた式年遷宮を復活させた慶光院の尼僧たち。全国に伊勢信仰を広めた御師。そして信長、秀吉、徳川。最後は「2000年にわたってこの神宮を守ってきたすべての人たちへ」感謝したい、と締めくくった。 書き終えてから、少し引っかかった。 記事に登場したのは、みな名前の残っている人たちだ。 でも、神宮のすぐそばで暮らし、毎年の祭りを支え、遷宮のたびに汗を流してきた人たちがいたはずだ。**伊勢の町の、名前の残らない人たち。**彼らは何を守ってきたのだろう。 調べ始めて、驚いた。 ちょうど今年、2026年。伊勢の町では、その人たちの伝統がまさに目の前で続いていたのだ。 戦乱の世、町の人が木を曳いた 前回の記事で、室町時代の戦乱で式年遷宮が100年以上も途絶えたことを書いた。 実は同じ時代に、もうひとつの物語が始まっていた。 もともと遷宮は国家の事業だった。社殿を造るための人手も、各地から伊勢へ送られてきた。ところが室町時代の後期になると、戦乱で人が来られなくなる。伊勢まで届いた御用材(社殿に使うヒノキ)を、内宮や外宮の中へ運び込む人がいない。 そこで立ち上がったのが、地元の人たちだった。 神宮の領地に暮らしてきた「神領民(しんりょうみん)」と呼ばれる人々が、労働奉仕として御用材を曳いた。これが「お木曳(おきひき)行事」の始まりとされている。以来550年以上、途切れることなく受け継がれてきた。 慶光院の尼僧たちが、お金を集めるために全国を回っていた時代。 町の人たちは、自分たちの体で遷宮を支え始めていた。 お木曳には二つのかたちがある。内宮へは五十鈴川の流れに御用材を浮かべて曳く「川曳(かわびき)」。外宮へは御木曳車に載せて町を曳く「陸曳(おかびき)」。 そして今年は、まさにそのお木曳の年だ。 2033年の第63回式年遷宮に向けて、2026年5月9日から6月13日までの週末、15日間にわたって陸曳が行われた。参加したのは伊勢の市民と全国から集まった崇敬者、あわせて約5万7900人。地元の奉曳団だけでも53団、約3万7900人が綱を握ったという。 揃いの法被を着て、「エンヤー」の掛け声とともに綱を曳く。週末になると、伊勢の町にはその声が響いていたそうだ。 今では、全国の崇敬者も「特別神領民」として参加できる。それでも中心にいるのは、地元...

朝日姫の夫、本当はこんな話だった?

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 日曜の夜、大河ドラマ『豊臣兄弟!』を見ていた。 秀吉と秀長の妹、あさひ。 そしてその夫、副田甚兵衛。 天下人の妹婿でありながら、どこか頼りなく、人のよさそうな男として描かれている。 この人、最後はどうなるんだっけ。 たしか、妹を家康に嫁がせるために、秀吉に無理やり離縁させられた人――。 そんなぼんやりした記憶しかなかった。 気になって調べ始めたら、思っていたのとはずいぶん違う話が出てきた。 引き裂かれた夫婦の物語 まず、よく知られている話から。 天正14年(1586)。 関白となった秀吉は、なかなか上洛しない徳川家康を従わせるため、妹の朝日姫を家康の正室として送り込む。 このとき朝日姫は44歳。すでに夫がいた。 その夫が、副田甚兵衛吉成。 秀吉は甚兵衛に、5万石の加増と引き換えに離縁を迫った。 ところが甚兵衛は加増を断り、故郷の尾張・烏森(からすもり)に帰って出家した。 隠斎(いんさい)と号し、ひっそりと余生を送ったという。 出世より、妻への思いを選んだ男。 大河ドラマ『功名が辻』(2006年)でも、この筋立てに沿った甚兵衛が描かれていた。 死の床にある旭のもとへ、身をやつした甚兵衛が会いに来る――そんな創作の場面まであった。 切なくて、美しい話だ。 でも、調べていくと、この話には少し影がさしてくる。 夫の名前は、ひとつではなかった 最初に驚いたのは、朝日姫の前夫の名前が、史料によって違うことだった。 ひとつは 佐治日向守(さじ ひゅうがのかみ) 。 天保4年(1833)成立の『改正三河後風土記』などに見える名前で、旭を返すことを承知したのち自害した、という話も伝わる。 ただ、同時代の史料にはその名が見えず、実在そのものが疑われている。 もうひとつが 副田甚兵衛(吉成) 。 寛文13年(1673)に山鹿素行が著した『武家事紀』が甚兵衛を秀吉の妹婿と記し、天保期の地誌『尾張志』も副田吉成の名を伝えている。 夫とされる人物 主な典拠 成立 副田甚兵衛 『武家事紀』 寛文13年(1673) 佐治日向守 『改正三河後風土記』 天保4年(1833) 副田吉成 『尾張志』 天保15年(1844) どれも、朝日姫が生きた時代から少なくとも80年以上後の書物だ。 つまり、朝日姫の前夫が誰だったのか――厳密には、今も確定していない。 それでも、近年は副田甚兵衛とする見方が一...

十本の腕の女神が、里帰りする五日間

 先日、インド出身の方と話をしていたときのこと。 秋になると故郷ではとても大きなお祭りがあって、それはもう大変な盛り上がりなのだと、楽しそうに教えてくれた。 その名は、 ドゥルガー・プージャ 。 聞き慣れない響きだった。 気になって調べてみると、この祭りは東京でも毎年開かれていて、今年は10月17日、亀戸で第15回目が行われるという。 ――ところが、その日は別の用事。 残念ながら、足を運ぶことはできなかった。 行けなかったからこそ、余計に気になる。 この祭りは、いったいどこから来たのだろう。 調べていくうちに、私は「インド」というひとくくりの言葉では収まらない、ひとつの地方の深い歴史にたどり着いた。 女神が里帰りする五日間 ドゥルガー・プージャは、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーを祀る秋の大祭だ。 インド東部の西ベンガル州、とりわけ州都コルカタで最も盛大に祝われる。 今年の西ベンガル州の暦では、10月10日のマハラヤで祭りの始まりが告げられ、17日から21日までの五日間が本番となる。 つまり、私がこの記事を書いている今まさに、コルカタは祭りの真っただ中にいるわけだ。 神話によれば、神々でさえ倒せなかった水牛の魔王マヒシャースラを、十本の腕に武器を携えた女神ドゥルガーが討ち果たしたという。 善が悪に打ち勝つ物語――それがこの祭りの根っこにある。 ただ、ベンガルの人々にとって、ドゥルガーは恐ろしい戦いの女神というだけではないらしい。 夫シヴァのもとから、子どもたちを連れて年に一度、実家へ帰ってくる「娘」として迎えられるのだ。 街の人々は、竹と布で「パンダル」と呼ばれる仮設の祭殿を建て、粘土の女神像を飾る。 夜通しパンダルを巡り歩き、ごちそうを分け合い、太鼓を打ち鳴らす。 そして最終日、女神像は川へ運ばれ、水に還される。 喜びと寂しさが入り混じる別れ。 ――どこか、日本のお盆に似ているような気がしないだろうか。 2021年、「コルカタのドゥルガー・プージャ」はユネスコの無形文化遺産に登録された。 イギリスの将軍が招かれた祭り ドゥルガー女神への祈りそのものは古い。 ベンガルで秋の大祭として記録に残るのは16世紀末ごろの地方領主によるもので、コルカタでは1610年にサバルナ・ロイ・チョウドリー家が祀ったのが最初とされている。 けれども、この祭りが「都市の一大イベント」へ...

犬も、お伊勢さんへ――おかげ犬と須賀川のシロ

 先日、ちょっと不思議な話を耳にした。 江戸時代には、 犬もお伊勢参りをしていた というのだ。 犬が? 伊勢神宮に? 最初は、よくできた昔話のひとつだろうと思った。 ところが調べてみると、伊勢神宮の神官が書き残した記録がある。大名の随筆にも、滝沢馬琴の日記にも出てくる。 そして福島県の須賀川には、伊勢から帰ってきた犬のお墓が、いまも残っているという。 ――これは、ただの昔話ではないらしい。 一生に一度は、お伊勢さんへ 犬の話の前に、まず人間の話から。 江戸時代、庶民のあこがれの旅といえば、伊勢神宮への参拝だった。 「一生に一度はお伊勢参り」。 街道が整い、宿場町が栄え、ふだんは移動が厳しく制限されていた農民も、伊勢参りが目的ならほぼ無条件で通行手形を出してもらえたという。 村ごとにお金を積み立てる「伊勢講」で代表者を送り出し、伊勢の御師(おし)が宿や案内の面倒をみる。いまでいう旅行会社のような仕組みまであった。 そして、およそ60年に一度、爆発的な集団参詣が起きる。 これが「おかげ参り」だ。 特に知られているのが、宝永2年(1705)、明和8年(1771)、そして文政13年(1830)。 文政のおかげ参りは、阿波・徳島の手習いの子どもたちが連れ立って伊勢に向かったのが発端とされる。それが半年あまりのあいだに全国へ広がり、 400万人を超える人々が伊勢をめざした と伝えられている。 当時の日本の人口の、6人に1人ほどにあたる数だ。 奉公人が主人に黙って、子どもが親に黙って、ふらりと旅立つ。これを「抜け参り」と呼び、とがめられることはあまりなかったらしい。 街道沿いの人々は、柄杓(ひしゃく)を手にした参拝者に、食事や宿、風呂まで無償でふるまった。これを「施行(せぎょう)」という。 お金がなくても、信心ひとつで伊勢までたどり着ける。 ――そんな時代だったのだ。 ある昼、一匹の犬が 明和8年(1771)4月16日の昼ごろ。 おかげ参りでにぎわう伊勢神宮に、一匹の犬が現れた。 手水場で水を飲み、そのまま奥へ進んでいく。そして社殿の前の広場で、ひれ伏して拝むような姿勢をとったという。 神官たちは驚いたはずだ。 なにしろ伊勢神宮には、古くから**「境内に犬を入れてはならない」**という決まりがあった。犬が死ぬこと、お産をすること、死肉をくわえてくること――いずれも穢れとさ...

いい国(1192)じゃなく、いい箱(1185)が戦国時代を作った!守護・地頭から『八犬伝』里見氏へののし上がりストーリー

   歴史の教科書で、かつて「1192年(いい国作ろう)」と習った鎌倉幕府の始まりが、今は「1185年(いい箱作ろう)」に変わっているのをご存知でしょうか? 実はこの「1185年」への変更、ただの年号の修正ではありません。 源頼朝がこの年に日本全国に設置した 「守護」 と 「地頭」 という2つの役職こそが、その後の室町時代、そして戦国時代の「下剋上」や大名たちのドラマを生み出す すべての伏線 だったのです。 今回は、頼朝の打った布石から、あの『南総里見八犬伝』で有名な名門・里見氏がのし上がっていくまでの歴史の巨大なうねりを、一本の線で繋げてご紹介します! 1. すべての始まり:頼朝が放った2つのフラッグシップ(1185年) 源頼朝が「征夷大将軍」という最高ランクの肩書をもらったのは1192年ですが、本当に日本を支配する実権を握ったのは 1185年 。朝廷に認めさせて全国に配置した「守護」と「地頭」が幕府の命綱でした。 守護(のちの守護大名) :国ごとに1人置かれ、軍事や警察を担うエリート。 地頭(のちの国人・国衆) :荘園(村)ごとに置かれ、土地管理や税金(年貢)集めを行う地域密着型。 この 「格上のエリート(守護)」 と 「現場の泥臭いボス(地頭)」 という歪な二重支配が、のちの大大乱戦の引き金となります。 2. 「現場の逆襲」が始まった室町時代 時代が室町時代に移ると、中央(幕府)のコントロールが弱まります。ここで牙を剥いたのが、現場に何世代も根を張り続けていた地頭たちでした。彼らは 「国人(こくじん)」 と呼ばれるようになり、土地の権益を完全に自分のものにしようとします。 一方、国のトップである守護たちも、地頭(国人)の土地に踏み込んで自分の家臣にしようと必死になります(これが「守護大名」の誕生です)。 ここに、 「上から力で押さえつけたい守護」vs「先祖代々の土地を守りたい現場の国人」 のリアルな権力闘争が勃発。国人たちは横で繋がり(国人一揆)、時に守護の命令をガン無視し、実力を蓄えていきました。 3. 下剋上の火蓋と「国衆」の誕生 戦国時代が幕を開けると、この対立は「下剋上」という形で爆発します。 京都の政治争いに夢中で現場を留守にしがちだった守護大名たちは、現場で農民や中小武士をガッチリ味方につけていた国人たちに、下から突き上げられて次々と没落し...

祖先は平家の落ち武者――南の海にのこる、ひとつの言い伝え

 以前、種子島出身の方と話をしていたときのこと。 ふと、こんな話になった。 「うちの島ではね、祖先は平家の落ち武者だっていう家が多いんですよ」 冗談めかした口調だったけれど、その一言がずっと頭の片隅に残っていた。 種子島といえば、鉄砲伝来の島。 そしてロケットの島。 そこに、なぜ平家なのだろう。 壇ノ浦から種子島まで、海の上をどれほど隔てているのか。 気になって、少し調べてみることにした。 島主は「平氏」を名乗った 手がかりは、すぐに見つかった。 種子島を鎌倉時代から治めてきた種子島氏。 その家に伝わる『種子島家譜』によれば、初代・信基は平清盛の孫、平行盛の遺児だという。 平家が滅んだあと、北条時政の養子となって命をつなぎ、種子島を含む南の十二の島を与えられた――。 島の殿様その人が、平家の血を引くと名乗っていたのだ。 ただし、これには続きがある。 現在の研究では、この系譜は後の時代に整えられたものと考えられている。 実際には、北条氏一門・名越家(北条朝時の流れ)に仕えた肥後氏が地頭代として島に入り、その嫡流がやがて「多禰嶋(種子島)」を名字にした、という説が有力だ。 つまり、殿様の平氏出自そのものが、確かとは言えない。 それでも――。 領主が「平家の末裔」を誇りにしていた島で、人々が自らの祖先を平家に重ねて語るようになったとしても、不思議ではないように思う。 平家は、海から富を得た そもそも、平家と南の海にはどんな縁があったのだろう。 清盛の父・平忠盛は、西国の海賊討伐で名を上げた武士だった。 そして白河院の荘園である肥前・神崎荘の管理に関わり、そこに来航する宋の船との交易にも手を伸ばしたとされる。 清盛の代になると、摂津の大輪田泊(いまの神戸)を整え、宋の船を都の近くまで呼び込もうとした。 平家の繁栄は、海の向こうとの交易に支えられていた。 では、宋は日本から何を買っていたのか。 そのひとつが硫黄だ。 日宋貿易が始まった10世紀末ごろから、日本の硫黄は中国へ運ばれるようになったという。 火薬の原料として、宋で求められていたらしい。 硫黄といえば、薩摩半島の南に浮かぶ三島村の硫黄島。 鹿ヶ谷の陰謀に加わった俊寛が流された「鬼界ヶ島」とも伝わる島だ。 平家に背いた者が送られた島が、平家の富を支えた交易品の産地でもあった――。 偶然かもしれない。 けれど、都の...