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Showing posts from June, 2026

関東最古の出雲系神社、鷲宮神社で古代出雲を感じられるか

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 埼玉県久喜市。東京から電車で1時間ほどの、いたって普通の郊外の町に、「関東最古の大社」を名乗る神社がある。 鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)。アニメ「らき☆すた」の聖地として若い参拝者を集めることでも知られるこの神社は、実はその由緒を辿ると、出雲の神々にまで行き着く。 出雲といえば島根県。日本海側の、大和からも遠く離れたあの地の神々が、なぜ関東平野のこんな内陸の町で祀られているのか。そして、実際にこの神社を訪れれば、その「出雲らしさ」を肌で感じることができるのだろうか。 祭神は、国譲り神話の「あの神様」 鷲宮神社の主祭神は、天穂日命(あめのほひのみこと)と武夷鳥命(たけひなとりのみこと)、そして大己貴命(おおなむちのみこと)——大国主命の別名だ。 天穂日命は、古事記・日本書紀における「国譲り神話」に登場する神である。高天原(天つ神の世界)が地上の国(葦原中国)を治めようとした際、まず使者として出雲に送られたのがこの神だった。ところが天穂日命は、大国主神の人徳にすっかり心服してしまい、3年経っても高天原に何も報告しなかったと伝えられる。いわば「任務放棄」の神様なのだが、後世的にはこれが出雲との深い結びつきを示す物語として語り継がれ、天穂日命の子孫は代々出雲国造として出雲大社の祭祀を司ることになった。 鷲宮神社の由緒では、その天穂日命と子・武夷鳥命が、部族28人を率いてこの地にやってきて、大己貴命を祀る神崎神社を建てたのが始まりとされている。時期は「神代の昔」——つまり、暦の上には存在しない神話的な時代としか記されていない。 「神代」を史実の年代に置き換えると ここが面白いところだ。「神代」という表現は、実は何も語っていないに等しい。だが、これを実際の歴史の流れに置き換えて考えることはできる。 以前、常陸国(茨城県)の神社を巡ってこんな記事を書いたことがある。 「茨城の神社が語る古代常陸の三つの顔」 。そこでは、常陸の古代史を三つの層——縄文・弥生の先住文化(日高見国)、弥生後期から古墳前期にかけての出雲系勢力の浸透、そして5世紀以降の大和朝廷による東国進出——として整理した。 その第二層、出雲系勢力の浸透期は、考古学的には弥生時代後期から古墳時代前期、およそ2〜4世紀頃とされる。出雲特有の「四隅突出型墳丘墓」の影響が北陸...

築地大橋のたもとから上流を眺めて、千年の時の流れを感じた

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 築地大橋に立つと、隅田川は静かに上流へと続いている。海から最も近いこの橋から眺める川面を見ながら、ふとこの川がたどってきた長い歴史に思いを馳せた。 平安貴族の憧れの地だった隅田川 隅田川がはじめて文学の舞台として脚光を浴びたのは、平安時代初期に成立した『伊勢物語』第九段「東下り」だった。 京を離れ東国へ下る主人公(在原業平がモデルとされる)は、隅田川のほとりで渡し守から「都鳥」という白い鳥について尋ねられる。その名にちなんで詠んだのが、 「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」 という歌である。「都」の名を持つ鳥に、都に残してきた愛する人の安否を問いかける――この一首に同行者たちは皆涙したという。 実際に在原業平が東国まで下った記録はなく、物語上の創作とも言われている。それでも、この歌は後世に大きな影響を与え、隅田川は「都鳥」「言問」という言葉とともに和歌に繰り返し詠まれる歌枕となった。当時実際に隅田川を訪れた貴族はほとんどいなかったはずなのに、物語の力だけで「都人の憧れの地」になったというのは、なんとも興味深い。後の「言問橋」という橋名にも、業平という地名にもこの故事は今なお残されている。 江戸時代、庶民の行楽地へ 時代が下り江戸に入ると、隅田川は和歌の世界の存在から、実際に多くの人々が訪れる賑やかな名所へと姿を変えていく。 向島の三囲神社は文人墨客の集う場所となり、長命寺門前で売られた桜餅は隅田川名物として大変な人気を博した。 なかでも墨堤の桜並木は江戸有数の花見の名所となった。8代将軍徳川吉宗が享保年間に植樹を進めたとされ、花見シーズンには船で川を上り下りしながら両岸の桜を愛でるという遊び方が定着した。夏には両国橋周辺で納涼船や花火が楽しまれ、これが現在の隅田川花火大会の起源となっている。 こうした隅田川の賑わいを今に伝えているのが、歌川広重の『名所江戸百景』である。両国橋の花火や、大はしあたけの夕立、隅田川沿いの桜など、川辺の四季折々の情景が浮世絵として描き出され、江戸庶民の隅田川への親しみを視覚的に物語っている。 また、神田雉子町の名主であった斎藤月岑が、祖父・父の代から親子三代にわたって編纂を続け、天保5年(1834年)から同7年(1836年)にかけて刊行した『江戸名所図会』...

池のほとりで感じる、数千年の歴史ロマン――六本木ヒルズ・毛利庭園にて

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 東京のど真ん中、六本木ヒルズの喧騒をほんの少し離れると、静かな池が広がる庭園がある。その名も 毛利庭園 。 今日はここで、しばらく池のほとりに腰を落ち着けてみた。水面に映る緑を眺めていると、ふとこの場所が背負っている歴史の重さに気づき、気がつけば遠い時代へと思いを馳せていた。 なぜここに「毛利」庭園があるのか 六本木に毛利?と思う人も多いかもしれない。実はこの土地、江戸時代には長州藩・ 毛利家の下屋敷 があった場所なのだ。広大な敷地には池泉回遊式の大名庭園が広がっていたという。 その後、明治の陸軍用地、戦後のテレビ朝日敷地を経て、2003年の六本木ヒルズ開発の際に、かつての庭園の面影を復元する形で整備されたのがこの毛利庭園だ。中央の池は江戸時代の池をそのまま活かしているとも言われる。 名前だけでなく、水そのものにも歴史が宿っている場所なのだ。 毛利家のルーツをたどる旅 では、その毛利家はどこから来たのか。ここからが、歴史ロマンの本番である。 毛利氏の祖先は 大江広元 (おおえのひろもと)。彼はもともと京都の公家・官人で、卓越した行政手腕を持つ文官だった。源頼朝に招かれて鎌倉に下向し、幕府の政所別当として鎌倉幕府の屋台骨を支えた人物だ。 その大江広元の四男・ 大江季光 が、相模国(現在の神奈川県厚木市あたり)の「毛利荘」を領したことで「毛利」を名乗り始めた。「毛利」という名字の発祥は、実は山口でも広島でもなく、神奈川県なのである。 その後、毛利氏は安芸国(広島県)へと移り、戦国時代に 毛利元就 が中国地方の覇者へと成長。そして長州藩(山口県)の藩主として幕末まで続き、あの 明治維新 の中心勢力となっていく。 さらに古へ――野見宿禰という浪漫 しかし、歴史をさらに遡ると、もう一つのロマンが待っている。 大江氏は**土師氏(はじし) の後裔とされ、その土師氏の祖として伝わるのが、古墳時代の人物 野見宿禰(のみのすくね)**だという説がある。あくまで「説」ではあるが、もしそれが本当だとしたら――。 野見宿禰といえば、力士にして 相撲の神様 。垂仁天皇の時代に当麻蹴速(たいまのけはや)と力比べをしたという伝説の人物で、今も相撲界にその名が生き続けている。また、埴輪の創始に関わったとも伝えられる。 その...

茨城の神社が語る古代常陸の三つの顔

 茨城県を旅すると、不思議なことに気づく。鹿島神宮のような大和朝廷ゆかりの神社がある一方で、出雲の大国主を祀る大洗磯前神社があり、さらに奈良の古代氏族・多氏にまつわる神社も各地に点在している。なぜ、こんなに多様な神々が一つの地に集まっているのだろうか。 実はこの謎を解く鍵が「三層構造」にある。常陸国(現在の茨城県)の古代史は、まるで地層のように三つの時代が重なり合っており、その痕跡が今も神社として残っているのだ。 第一の顔:日高見国——縄文・弥生の先住文化圏 最も古い層は「日高見国(ひたかみのくに)」と呼ばれる先住の世界だ。 『常陸国風土記』には「この地はもと日高見の国なり」と明記されている。大和朝廷が「常陸国」という名をつける以前、茨城の地には独自の縄文・弥生文化圏が広がっていた。 日高見国は単なる辺境ではなかった。『日本書紀』や『常陸国風土記』に「国」として記されており、長身で容姿端麗、勇敢な人々が暮らす地として大和側からも一目置かれていた。東国は鉄の産地でもあり、独自の太陽信仰を持っていたとされる。 現在の茨城には、この最古の層を偲ばせる神社が残っている。大甕神社(日立市)はその代表例で、天津甕星(あまつみかぼし)という星神を祀るが、この神はヤマト王権への最後の抵抗者とも伝えられる土着の神だ。 第二の顔:出雲の国造り——大国主が渡ってきた海 次の層は、弥生時代後期から古墳時代前期(2〜4世紀頃)にかけての「出雲系勢力の浸透」だ。 大洗磯前神社(大洗町)と酒列磯前神社(ひたちなか市)の由緒に、この歴史が刻まれている。平安時代の歴史書『日本文徳天皇実録』(856年)には、大己貴命(大国主)と少彦名命が常陸の海岸に降臨し、こう告げたと記されている。 「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造り訖へて、去りて東海に往きけり。今民を済わんが為、亦帰り来たれり」 ——「われはかつてこの国を造り、東の海に去っていたが、今また民を救うために帰ってきた」というのだ。 この「かつてこの国を造った」という言葉が示すのは、出雲の神々(あるいはそれを信仰する人々)が、大和朝廷よりずっと以前から常陸の地に根ざしていたことだ。 考古学的にも、弥生時代後期から古墳時代にかけて、出雲特有の「四隅突出型墳丘墓」の影響が北陸から関東方面...

旧11宮家と「男系男子」 ——全員の先祖が同じって、本当?

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  1947年に皇籍を離脱した11の宮家。創設した天皇はそれぞれ違うのに、 「男系男子」で辿ると全員が同じ先祖にたどり着くといわれます。 いったいどういうことなのか、図と表でやさしく解説します。 🗓 2026年6月 📖 約5分で読めます 目次 「男系男子」ってどういう意味? 旧11宮家とは?1947年に何があったか 各宮家の「表向きの祖先」天皇一覧 男系で辿ると全員が同じ先祖になる理由 現在の天皇陛下との関係 この話が今なぜ重要なのか 01 「男系男子」ってどういう意味? まず言葉の整理から。ニュースでよく耳にする 男系男子 とは何でしょうか? 「男系」=父方だけでつながる血統 男系 とは、父・祖父・曾祖父……と、 父方の系譜だけをたどって 先祖にたどり着けることを指します。 途中に一度でも「母方のつながり」が入ると、男系とはいいません。 生物学的なイメージでいえば、 Y染色体を引き継いでいる かどうか、と言い換えることもできます(Y染色体は父から息子へのみ受け継がれます)。 「男系男子」=父方でつながる男性 男系男子 とは、男系でつながっている 男性 のことです。 現行の皇室典範では「皇位は男系の男子が継承する」と定められており、 この「男系男子」が皇位継承の条件になっています。 具体例で考えてみましょう たとえばAさんの父親が天皇家の男系子孫であれば、Aさん自身が女性であっても 「男系の子孫」です。しかし皇位を継げる「男系男子」ではありません。 一方、Aさんの兄は「男系男子」になります。 02 旧11宮家とは?1947年に何があったか 第二次世界大戦後、GHQ(連合国最高司令部)の占領政策のもとで 皇室制度が大きく変わりました。1947年10月14日、 11の宮家・計51名の皇族が一斉に皇籍を離脱 しました。 これが「旧11宮家」です。 離脱した宮家 11家 一斉に皇籍を離れた 離脱した人数 51名 一般国民となった 離脱の年 1947年 昭和22年10月14日 なぜ離脱することになったの? 主な理由は3つです。①GHQが皇室を縮小する方針を採ったこと、 ②広範な皇族を維持するための財政的な負担が大きかったこと、 ③新憲法体制に合わせた民主化・簡素化の流れがあったこと。 離脱した方々はその後、一般の日本人として生活し、 現在もその子孫が各地に存在...

千代田城から江戸城へ——昭和30年代の写真ブックから見えてきた、城の名前の変遷

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 昭和34年(1959年)に朝日新聞社が発行したアサヒ写真ブックのシリーズ「古城をたずねて」。そのページをめくると、現在の皇居——誰もが「江戸城」と呼ぶあの城——が「 千代田城 」という名前で紹介されている。記事の中には「過去には江戸城とも呼ばれていた」という一文まである。 現代の感覚からすると、これは少し奇妙に思える。江戸城といえば徳川将軍の居城、誰でも知っている名前のはずだ。なぜ昭和30年代の出版物には「千代田城」と書かれていたのか。そこを入口に、この城の名前の歴史を辿ってみたい。 そもそも「千代田城」と「江戸城」は別々の城だった 一般には「千代田城は江戸城の別名」と説明されることが多い。しかし、東京の地域史を長年研究してきたブログ「落合学(落合道人)」の筆者は、この通説に異議を唱えている。両者は同じ場所に建てられた、 時代の異なる別の城郭 だというのだ。 まず室町時代の「江戸城」。1457年(長禄元年)、扇谷上杉家の家臣・太田道灌が、武蔵国豊嶋郡江戸の地に城を築いた。これが「江戸城」の始まりである。1952年に岩波書店から刊行された学術書『千代田城』(監修・高柳光壽)にも、「千代田城はもっと後のもので1700年頃から見えて来る」と明記されており、太田道灌の城と江戸幕府の城は明確に区別されていた。 続いて江戸時代の「千代田城」。1590年(天正18年)に徳川家康が入城したとき、彼が使ったのはまだ道灌由来の旧城だった。その後、2代・秀忠、3代・家光の時代にかけて大規模な改築が進み、1636年(寛永13年)ごろに「史上空前の巨城」と称される現在の城郭がほぼ完成した。 この巨大な新しい城を、道灌の江戸城と区別するために、地元の江戸っ子たちは「 千代田城 」と呼び始めた。城が建つ土地の小名「千代田(チオタ)」に由来する呼び名だ。ちょうど会津の城が地元では「鶴ヶ城」、姫路城が「白鷺城」と呼ばれるように、地元の人々が親しみを込めてつけた名前だったのだろう。 「千代田城」がもっとも輝いていた時代 江戸中期から幕末にかけて、「千代田城」という呼び名は江戸の城下町に深く根付いていた。他藩の武士たちが外側から「江戸城」と呼んでいた同じ城を、地元の人々は「千代田城」と呼んでいたのである。 こうした伝統は近代に入っても息づいていた。冒頭の...

敗北からの教訓——三十数戦無敗の名将・太田道灌の敗北から学ぶ

  はじめに——赤羽の丘の上に、城があった 先日、東京都北区赤羽を歩いていたとき、ふと足を止めました。駅からほど近い住宅街の一角に、こんもりと緑に覆われた小高い丘。その上に、静勝寺という小さなお寺があります。 観光客の姿はほとんどありません。静かな境内に入ると、山門の奥に「道灌堂」と書かれた堂があります。ここに、室町時代の武将・太田道灌の木造坐像が安置されているのです。 この丘はかつて、稲付城という城があった場所でした。道灌が砦として使用したと伝わるこの城は、今では寺の境内と周辺の丘陵にその痕跡をとどめるだけです。しかし毎月26日になると道灌堂が開扉され、毎年7月26日には「道灌祭」が行われ、地元の人々が540年以上たった今も道灌の命日を悼んでいます。 なぜこれほど長く、慕われ続けているのか。調べていくうちに、三十数度の戦いで一度も負けなかった名将の生涯と、その非業の死の物語が見えてきました。そしてその物語には、現代を生きる私たちにも深く刺さる教訓が詰まっていたのです。 第1章 道灌が築いた城たち——江戸・川越・岩槻 江戸城(東京都千代田区) 1457年、道灌は武蔵国荏原郷に江戸城を築き、自らの居城としました。当時の江戸はまだ小さな漁村に過ぎませんでしたが、道灌はその地形的な優位性——海に近く、防御しやすい台地——を見抜いていました。 城の構造は「子城(本城)」「中城」「外城」の三重構造で、石門は25か所にも及んだといいます。この城が後に徳川幕府の本拠地となり、現代の東京の原点になることを、道灌は知る由もありませんでした。 川越城(埼玉県川越市) 江戸城と同じ1457年、道灌は父・太田資清とともに川越城も築きました。扇谷上杉家の当主・上杉持朝の対古河公方の最前線拠点として位置づけられ、江戸城とは軍事道路で結んで防衛線を構築しました。 現在残る川越城は江戸時代に拡張されたものですが、中ノ門堀は当時の遺構が今も見ることができます。 岩槻城(埼玉県さいたま市) 現在のさいたま市岩槻区にあったこの城も、道灌の築城または関与によるとされています。荒川沿いの低湿地を巧みに利用した、水城の趣を持つ堅城でした。 これだけの城を20代のうちに手がけたというのですから、道灌が「築城名人」と称された理由がわかります。 ...

志は死なない ―― 吉田松陰の「種」は、いま私たちの中にある

  師から弟子へ、165年を越えて受け継がれた一本の糸 前回の記事:「教育とは、人の中に眠る可能性を引き出すことだ」―― 吉田松陰、牢獄での奇跡 2026年 / 幕末・歴史 前回、吉田松陰が牢獄の中でも教えることをやめなかった話を書いた。今回はその続きだ。彼の志は、処刑後にどう受け継がれ、そして165年を越えた今、私たちとどう繋がっているのか。 松陰が処刑されたのは1859年11月。29歳だった。しかし彼は処刑の前夜、『留魂録』にこう書き残している。 「もしも同志諸友が、ささやかなわが志を憐れんでくれ、継承してくれる人がいる限り、その種は先々まで絶えることなく生き続け、立派に花を咲かせ、見事な稲穂を実らせるはずです」 ― 吉田松陰『留魂録』 「種」という言葉を選んだのが、いかにも松陰らしい。自分の死を嘆くのではなく、次の世代への祈りとして書いた。そしてその祈りは、驚くほど正確に実現していった。 志を継いだ5人の弟子たち 松陰の門下生は約80名に及ぶが、中でも5人の弟子がその志を体現し、近代日本の礎を築いた。 松下村塾の双璧 高杉晋作(1839〜1867)── 動けば雷電の如し 師の処刑後、上海に渡り欧米に侵食された清国の姿を目の当たりにした晋作は、帰国後に身分を問わず農民・町人も入隊できる「奇兵隊」を創設。幕藩体制を打ち破る倒幕の先鋒となった。しかし29歳——師と同じ年齢で病死する。「面白きこともなき世を面白く」。その辞世の句は、松陰の精神をそのまま映している。 松陰が「長州第一の俊才」と称した 久坂玄瑞(1840〜1864)── 尊王攘夷の先鋒 松陰の妹・文の夫でもあった玄瑞は、師の死後、全国の尊王攘夷派をまとめる存在へと成長した。1864年の禁門の変で25歳の若さで自決。松陰の墓のすぐ左側に今も眠っている。 農民の子から国の頂点へ 伊藤博文(1841〜1909)── 初代内閣総理大臣 足軽の子という最も低い身分から出発した伊藤は、松陰から「君は将来大物政治家になるだろう」と言われた。イギリス留学で西洋の力を知り、開国論へ転じた後、大日本帝国憲法の起草中心人物として近代立憲主義社会の基礎を築いた。松陰が夢見た「身分を超えた社会」の象徴的な存在となった。 わずか1年の師弟関係、生涯の誇り 山縣有朋(1838〜1922)── 近代陸軍の父 松下村塾に入塾した翌...

「教育とは、人の中に眠る可能性を引き出すことだ」 ―― 吉田松陰、牢獄での奇跡

  29年の短い生涯で、なぜ彼はこれほど多くの人を動かせたのか 2025年 / 幕末・歴史 「教えることは、知識を与えることではない。相手の中にすでにある可能性を、信じて引き出すことだ。」吉田松陰はその言葉を、言葉ではなく生き方で証明した人物だった。 1830年、長州藩(現・山口県)に生まれた松陰は、29歳で処刑されるまでの短い生涯を、学び・教え・行動することに捧げた。彼が残した最大の遺産は書物でも政策でもなく、後の明治維新を担った数多くの人材だった。 そして驚くべきことに、その教育のいくつかは、牢獄の中で行われた。 Episode 01 ── 囚人たちへの講義 野山獄・1854年 素行の悪い囚人が、孟子を学び始めた日 ペリー艦隊への密航を企て失敗した松陰は、長州藩の野山獄に投獄された。身分の高い者が入る牢だったが、そこには様々な境遇の人間がいた。松陰はひるむことなく、同じ囚人たちに『孟子』の講義を始める。 その中に、富永有隣という男がいた。もともと素行が悪く、周囲からも持て余されていた人物だ。しかし松陰の講義を聞き続けるうち、彼は少しずつ変わっていった。怒りっぽかった言動が穏やかになり、学ぶことへの興味が芽生えていったのだ。 松陰は「この人には可能性がない」と誰かを見捨てることをしなかった。牢の中であろうと、相手が囚人であろうと、それは変わらなかった。 ― 松陰の教育姿勢について 知識を「持っている者」が「持っていない者」に与えるのではなく、共に問いを立て、共に考える。松陰の教育は、相手を対等な人間として扱うことから始まっていた。 Episode 02 ── 獄中の圧倒的な読書量 野山獄・1854〜1855年 約1年間で、600冊以上を読破 投獄中、松陰は藩や知人から本を取り寄せ、ひたすら読み続けた。その数、1年で600冊以上とも言われる。しかも読むだけでなく、感想や考察を丁寧に書き留めた。教える者が、誰よりも貪欲に学ぶ者だった。 「先生」が学ぶ姿を見せることは、言葉による教えよりもずっと深く人の心に届く。松陰の周囲の人々が動かされたのは、その「生き方そのもの」からだったのかもしれない。 Episode 03 ── 処刑前夜の「留魂録」 伝馬町獄・1859年 処刑の前日、一夜で書き上げた最後の講義 安政の大獄で江戸の伝馬町獄に送られた松陰は、翌日の処刑を前...