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A Nation That Knows Before It Acts — On the Ancient Word "Shirasu"

 "Japanese people don't speak up." I hear this from time to time when I talk with people from overseas. It's true that we rarely voice an opinion right away in a meeting. We often say neither "yes" nor "no" on the spot, and take the matter home to think it over. But something about that description has always bothered me. It isn't that we don't assert ourselves. Perhaps we are simply trying to understand the other person, and the situation, before we act. It was while I was thinking about this that I came across a phrase: "Japan is a Shirasu nation." It is a phrase rooted in a very old word — one that goes back to the Kojiki . On the Beach Where the Land Was Handed Over The Kojiki , compiled in 712, is Japan's oldest surviving chronicle. It begins with the age of the gods. One of its best-known scenes takes place in Izumo, on a shore said to be today's Inasa Beach. According to the Kojiki , the god Takemikazuchi descends ...

知ってから動く国――「シラス」という古い言葉のこと

 「日本人は自己主張しない」 海外の人と話していると、ときどきそう言われる。 確かに、会議ですぐには意見を言わない。 その場で「イエス」とも「ノー」とも言わず、いったん持ち帰ることも多い。 でも、私はずっと小さな違和感を抱えていた。 主張しないのではない。 まず相手を知り、状況を知ってから動こうとしているだけではないか ――と。 そんなことを考えていたとき、ひとつの言葉に出会った。 「日本はシラス国である」 『古事記』にさかのぼる、とても古い言葉だ。 国譲りの浜で 舞台は出雲。 今の稲佐の浜とされる海辺だ。 『古事記』によれば、天照大御神の使者として建御雷神(タケミカヅチ)がこの浜に降り立つ。 剣を波の上に逆さに突き立て、その切っ先にあぐらをかいて、国の主である大国主神にこう告げた。 「汝がうしはける葦原中国は、我が御子の知らす国ぞ」 あなたが「うしはく」しているこの国は、わが御子が「しらす」国である――。 ここで、「治める」を意味する言葉が二つ使われている。 ウシハク(領く) :土地や人を、自分のものとして支配すること シラス(知らす・治す) :もとは「知る」の尊敬語。知ることによって治めること もちろん、これは神話だ。 実際にこの浜でそんなやり取りがあったわけではない。 それでも、古代の人々が「治める」ことに二つの言い方を持っていた―― そのこと自体が、私にはとても興味深く思えた。 井上毅が見つけたもの この二つの言葉の違いに、真剣に向き合った人物がいる。 明治の法制官僚、井上毅(いのうえ・こわし)。 伊藤博文のもとで、大日本帝国憲法の起草に深く関わった人だ。 もともとは西洋の法律を学んだ人だった。 しかし憲法をつくるにあたって、彼は日本の古典に立ち返る。 『古事記』や、本居宣長の『古事記伝』を読み込んだ。 そこで井上は、あることに気づく。 天照大御神や天皇に関わる場面では「しらす」。 大国主神をはじめ、各地の豪族の場面では「うしはく」。 二つの言葉が、きちんと使い分けられている ――と。 井上の説明はこうだ。 「うしはく」は、西洋でいう「支配」と同じ。 一方の「しらす」は「知る」から来ている。 治める者がまず民の喜びや悲しみ、願いを知り、それを鏡のようにわが心に映して治めること。 そして井上は、この「しらす」こそが日本という国の本質だと考えた。 ――た...

洲崎の海の敵は、道灌を殺した男だった

 前回、 享徳の乱が終わったあとの関東 を追いかけた。都鄙合体、長享の乱、そして河越夜戦。書き終えて、ふと『南総里見八犬伝』の最後の巻を開き直してみた。 物語のクライマックスは、里見家と関東の諸勢力とのあいだの大合戦だ。戦場は三つある。下総の行徳口、国府台、そして安房の 洲崎沖 。最後の洲崎沖では、海の上での戦いになる。 では、海から攻め寄せてくる敵の総大将は誰か。 扇谷定正 ――八犬士の「最大の敵」として描かれる、関東管領である。 この名前を見て、手が止まった。前回の記事で、私は同じ人物について書いたばかりだったからだ。太田道灌を暗殺した、扇谷上杉家の当主・ 上杉定正 。 馬琴は、この男をラスボスに選んでいたのだ。 第1章 洲崎沖の海戦 物語の中では、文明15年(1483年)の冬のことである。 八犬士に恨みを抱く扇谷定正は、山内顕定、滸我公方・足利成氏らと手を組み、里見討伐の連合軍を起こす。里見家は犬士たちを三方面に振り分けて迎え撃つ。 洲崎口の守りを任されたのは、 犬山道節 だった。 この海戦の描写は、『三国志演義』の 赤壁の戦い を下敷きにしていると言われる。大軍で押し寄せる側が、海の上で策にはまって崩れていく。曹操の役回りを与えられたのが、定正というわけだ。 道節は定正を追い詰める。けれど、最後の最後で討ち漏らしてしまう。 道節と定正の因縁は、物語の序盤から続いている。道節が仕えていた 煉馬家 は、定正に滅ぼされた。道節は父の仇として、何度も定正の命を狙い、そのたびに届かなかった。洲崎の海でも、それは同じだった。 第2章 煉馬家を滅ぼしたのは、本当は誰か 調べていくと、面白いことに気づいた。 「煉馬」は、東京の 練馬 のもじりである。 史実では、室町時代の練馬には、豊島氏の一族が城を構えていた。文明9年(1477年)、豊島氏は山内上杉家の家臣・長尾景春の反乱に呼応して立ち上がる。そして江古田原・沼袋の戦いで敗れ、没落していく。 豊島氏を討った武将の名は―― 太田道灌 である。 つまり、道節の本当の「仇」にあたるのは、定正ではなく道灌なのだ。けれど八犬伝では、その役割がすべて定正に寄せられている。 では、道灌は物語のどこにいるのか。 実は、名前を変えて登場している。 巨田道灌 。そして定正の重臣には、道灌の息子と...

見るのではなく、神様に見てもらう――伊勢神宮で神楽をあげるということ

  近々、伊勢神宮へお参りに行くことになった。 今回は、神楽殿で神楽をあげていただく。いわゆる「御神楽(おかぐら)」の奉納である。 せっかくなので、事前に少し調べておこうと思った。神楽とはそもそも何なのか。伊勢で神楽をあげるということには、どんな歴史があるのか。 調べていくうちに、ひとつ、はっとさせられたことがあった。 神楽は、私たちが見るためのものではなかった。 正面にいるのは、神様 伊勢神宮の神楽殿で御神楽が奏されるとき、正面は神座(かみくら)になっている。申し込んだ私たちは、舞を背後から見守る形になるのだという。 つまり、舞の観客は神様なのだ。 「神楽」はもともと「神遊び」とも呼ばれてきた。神様に楽しんでいただき、喜んでいただくための歌と舞。私たちはその場に同席させていただき、神様と同じ方向を向いて、同じ舞を拝見する。 そう考えると、舞の出来栄えを「鑑賞する」というのとは、少し心持ちが違ってくる。願いや感謝の気持ちを、舞と音楽に乗せて届けていただく時間――そう言ったほうが近いのかもしれない。 岩戸の前の舞から 神楽の起源は、神話の中にある。 天照大御神が天岩戸にお隠れになったとき、岩戸の前で天鈿女命(あめのうずめのみこと)が神懸りして舞った。それが神楽の始まりだと伝えられている。 伊勢神宮の内宮にお祀りされているのは、まさにその天照大御神である。 岩戸の奥の神様に向けて舞われたのが始まりなのだとしたら、神楽が最初から「神様に見ていただくもの」だったのは、ある意味で当然なのだろう。もちろんこれは神話の話であって、史実とは分けて考える必要がある。それでも、伊勢で神楽をあげるということに、不思議な縁を感じずにはいられない。 もともと、個人は奉納できなかった 意外だったのは、伊勢神宮では古来、誰もが神楽をあげられたわけではない、ということだ。 神宮には「私幣禁断(しへいきんだん)」という決まりがあった。天皇以外の者が神宮にお供えをすることは禁じられていたのである。皇后や皇太子であっても、お供えには天皇の許可が必要だったという。 それが変わり始めるのは、平安時代の末から鎌倉時代の初めごろ。神宮に祈りを届けたいという人々の求めに応じて、斎宮の離宮である離宮院(現在の伊勢市小俣町、JR宮川駅の近く)の河原殿で「臨時祭」が行われるよ...

東の国が、二つに割れたまま戦国へ

  前回、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を読み返していて出会った一文をきっかけに、 鎌倉公方と将軍という「本来は同族でありながら並び立とうとした二つの権威」が、ついに享徳の乱という形で決着するまでの経緯を書いた 。1483年、山内上杉顕定・扇谷上杉定正が古河公方・足利成氏と和睦し、28年に及んだ大乱はようやく終わった――そこまでが前回の話だ。 あの記事を書き終えたあと、正直なところ、少しモヤモヤが残っていた。 和睦して、終わり。それで本当に終わったのだろうか。 調べ直してみると、享徳の乱の「終わり方」自体が、なんとも中途半端だった。そして、その中途半端さこそが、次の戦乱の火種になっていく。今日はその続きを書いていきたいと思う。 第1章 終わらなかった「終戦」 文明14年(1482年)11月27日――暦の上ではこの年だが、実際の和睦成立は翌年の1月6日にずれ込んでいる。8代将軍・足利義政の仲介で、古河公方・足利成氏と幕府はようやく和睦にこぎつけた。世に言う**都鄙合体(とひがったい)**である。 これで成氏は、正式な鎌倉公方として関東の統治を認められた。約28年に及んだ大乱に、一応の終止符が打たれたことになる。 けれど――ここが厄介なところなのだが、 この和睦は「関東を一つに戻す」ものではなかった 。 享徳の乱の過程で、関東は利根川を境に東西へと分断されていた。東側は成氏を支持する古河公方陣営、西側は関東管領・上杉氏の陣営。和睦が成立したあとも、成氏は古河に居を構えたままで、鎌倉に戻ることはなかった。 そしてもう一人、忘れてはいけない存在がいる。幕府がこの戦乱の最中に関東へ送り込んだ、将軍の弟・ 足利政知 である。政知は鎌倉に入ることすらできず、伊豆の堀越にとどまり続けていた。いわゆる 堀越公方 だ。 つまり和睦が成った後も、関東には「古河の公方」と「堀越の公方」が、二人同時に存在し続けていたのである。 戦は止んだ。けれど、関東という土地の分裂状態そのものは、何も解消されていなかった。 第2章 味方同士が、殺し合う 享徳の乱の間、上杉方は「山内上杉氏」と「扇谷上杉氏」という二つの家が力を合わせて成氏と戦っていた。特に扇谷上杉家では、家宰(執事)の 太田道灌 が抜群の軍才を発揮し、江戸城や川越城を築きながら各地を転戦し、乱の終結に大きく貢...

傷ひとつない武将が、なぜ井戸を掘ったのか(大多喜城)

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大多喜城について調べていたら、ふと引っかかる話に出会った。本多忠勝は、生涯50数度の戦に出ながら「かすり傷ひとつ負わなかった」と伝わる武将だ。徳川四天王のひとり、天下三槍のひとつ「蜻蛉切」の使い手――そんな武勇伝ばかりが語られる人だと思っていた。 でも大多喜城について読み進めるうちに、忠勝のもうひとつの顔が見えてきた。 彼は、戦う人であると同時に、地面を掘り、川を整え、町をつくる人でもあった。 根古屋城では守れない、と忠勝は言った 天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の後、家康は関東へ移封される。里見氏への備えとして、忠勝はこの上総国夷隅郡大多喜に10万石を与えられた。 このとき城主に据えられたのは、すでにあった根古屋城だった。ところが忠勝は、この城の防備に納得しなかったという。精細な城郭図を自ら添えて、家康に新築を願い出たのだ。 槍働きの武将、という印象からすると、これは少し意外な行動に思える。 忠勝は、地形を読む人だった。 夷隅川と、蟲川、置川に囲まれた丘陵。城の北西には九十九谷と呼ばれる急峻な谷が連なる。忠勝はこの天険を選び、自然の要害に人工の堀と塁を組み合わせて、近世城郭を築き上げた。南は夷隅川に落ち込む急崖、西は空堀、東と北は水堀。攻めるに難く、守るに易い――そういう構えである。 そしてもうひとつ、忠勝が特にこだわったのが水だったらしい。二の丸・三の丸にあわせて二十五もの井戸を設けたと伝わる。中でも今も残る大井戸は、周囲17メートル、深さ20メートル。籠城戦を見越した、実務家としての忠勝の顔がここに見える。 城の下に、町をつくる 城だけをつくって満足しない人だったのだと思う。忠勝は、ふもとに城下町の建設まで手がけている。 大多喜の総鎮守である夷隅神社も、忠勝が城下町を整備する中で創建したと伝わる。信仰の拠り所まで含めて、町のかたちをゼロから組み立てていったということだろう。 この「城と町をセットでつくる」姿勢は、忠勝ひとりの癖ではなかったようだ。 のちに関ヶ原の戦功で伊勢桑名10万石に移封されたとき、忠勝はここでも同じことをしている。城郭の改修、町割り、宿場の整備。揖斐川沿いに城を拡張し、城下町へ注ぎ込む川の流れまで整え、城下町・宿場町・港町として機能するよう大規模な町割りを行った。「慶長の町割り」と呼ばれるこの都市計画は、のちに「桑名藩創設...

分け御霊は、北を向く――那珂市に、もうひとつの鹿島があった

 先月、「“国譲り神話の現場”だったかもしれない、茨城の神社巡り」という記事を書いた。あのとき訪ねたのは、那珂市静の静神社だった。建葉槌命が、最後まで服従しなかった星の神・香香背男を平定した拠点として紹介した神社だ。 実はその同じ那珂市に、もうひとつ気になる神社がある。菅谷(すがや)にある鹿島神社――地元では「菅谷鹿島様」と呼ばれているらしい。名前からしてすでに察しがつくと思うが、この神社、鹿嶋市の本家・鹿島神宮と、驚くほど共通点が多いのだ。 北を向いた参道。祀られているのは武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)――鹿島神宮の御祭神そのもの。 同じ那珂市の中で、国譲り神話の「勝者側」の物語が、二重に、しかも別々の経緯で根を張っていた ことになる。 そもそも、なぜ鹿島神宮は「北向き」なのか 菅谷鹿島神社の話をする前に、本家・鹿島神宮の話をしておきたい。 日本の神社の多くは、東か南を向いて建っている。ところが鹿島神宮は違う。参道は西から東へまっすぐ伸びているのに、社殿はその参道の途中で右(南)から接続する特殊な位置関係にあり、このため社殿は北面するという、かなり珍しい配置になっている。 Wikipedia 理由として伝えられているのは、常陸国がかつて大和朝廷にとっての最前線だったから、というものだ。大和朝廷は東北の蝦夷を討伐するための重要な軍事拠点として、鹿島神宮と香取神宮を奉ったとされ、鹿島神と香取神を各地に祀っていくたびに、鹿島神宮の本殿が北側を向いているのは、これらを鎮護するためとも言われている。 shrineheritager つまり本殿そのものが、 今もまだ北の脅威に背を向けず、睨みを利かせ続けている という設計思想らしい。ちなみに本殿内部の神座は、内陣の南西隅にあって東を向いているというねじれた構造になっており、これは出雲大社本殿の神座配置と共通する構造だとも指摘されている。国譲り神話の「勝った側」の社殿が、「譲らせた側」の出雲大社と、内部構造でどこかつながっている――というのも、考え出すと夜も眠れなくなりそうな話だ。 hidemichitanaka 那珂市菅谷に、北を向いた分け御霊があった さて、本題の菅谷鹿島神社である。 鎮座地は那珂市菅谷2345。祭神はもちろん武甕槌大神、愛称は「鹿島さま」。御由緒によれば、そのはじまりは...