追記:抜け参りと関所
記事を公開したあと、ふと疑問が湧いた。
抜け参りの人たちは、関所をどうやって越えたのだろう。
江戸時代の旅には「手形」が要る。
主人にも親にも黙って、着の身着のままで飛び出した人たちが、そんなものを持っていたはずがない。
調べてみると、そこには少し意外な「建前と本音」の世界があった。
手形は二種類あった
まず、関所で見せる「関所手形」と、身元を証明する「往来手形」は、別のものだったという。
往来手形は、旦那寺や村の庄屋が出す、いわば身分証。
旅に出るなら原則として必要とされていた。
ところが関所手形のほうは、庶民の男性なら必ずしも必須ではなかったらしい。
手形を持っていなくても、取り調べで怪しいところがなければ通してもらえる。
少なくとも、制度の上ではそういうことになっていたそうだ。
江戸の宿屋で、手形をもらう
きちんと手続きをする旅人の側にも、抜け道のような慣行があった。
東国から伊勢へ向かう人の多くは、いったん江戸で一、二泊する。
その江戸の旅籠で、関所に出す手形を発行してもらっていたというのだ。
幕府はこうした「途中手形」を禁じていた。
それでも旅日記には、宿で手形をもらった話がたびたび出てくるという。
規則は規則。
けれど現場は、旅人を通すために回っていた――そんな光景が目に浮かぶ。
何百万人を、止められるか
では、抜け参りの人たちは。
奉公人や子どもが手形も持たずに加わる「抜け参り」があったことは、各地の資料にも記されている。
おかげ参りの年には、何百万という群衆が街道にあふれた。
その一人ひとりを、関所や番所が厳密に改められただろうか。
そしてそもそも、彼らが目指していたのはお伊勢さんである。
信仰の旅を止めることに、役人たちもどこかためらいがあったのではないだろうか。
関所のない道
もうひとつ、見落とせないことがある。
文政13年のおかげ参りは、阿波国から始まったとされる。
群参の中心は、四国や近畿など西日本の人々だった。
箱根や新居のような厳しい関所を越えるのは、主に東から来る旅人だ。
西から伊勢へ向かう道には、そうした大関所はほとんどない。
抜け参りが成り立った理由のひとつは、
そもそも関所にぶつからない道が多かったことなのかもしれない。
ただ、女性は
ただし、これはあくまで男性の話だ。
「入鉄砲に出女」の言葉どおり、女性の関所通過は厳しく改められた。
女性が手形なしで大関所を越えるのは、容易ではなかったはずだ。
おかげ参りの熱狂のなかでも、越えられる道と、越えられない道があった。
そこにも、旅に出たくても出られなかった人たちの思いが重なっているように思う。
文七の柄杓は、関所を開ける鍵ではなかった。
けれど、笠をかぶり柄杓を手にした旅人の姿は、
「この人は伊勢へ向かっている」と、道ゆく人々に告げていたのだろう。
もちろん、道中には盗人もいたし、行き倒れる人もいた。
それでも、柄杓を差し出す見知らぬ旅人に、宿と食事をふるまう人々がいた。
その善意の厚みこそが、何百万人もの旅を支えたのだと思う。
そう考えると、あの小さな柄杓が、いっそう愛おしく思えてくる。
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