朝日姫の夫、本当はこんな話だった?

 日曜の夜、大河ドラマ『豊臣兄弟!』を見ていた。

秀吉と秀長の妹、あさひ。 そしてその夫、副田甚兵衛。

天下人の妹婿でありながら、どこか頼りなく、人のよさそうな男として描かれている。

この人、最後はどうなるんだっけ。

たしか、妹を家康に嫁がせるために、秀吉に無理やり離縁させられた人――。 そんなぼんやりした記憶しかなかった。

気になって調べ始めたら、思っていたのとはずいぶん違う話が出てきた。

引き裂かれた夫婦の物語

まず、よく知られている話から。

天正14年(1586)。 関白となった秀吉は、なかなか上洛しない徳川家康を従わせるため、妹の朝日姫を家康の正室として送り込む。 このとき朝日姫は44歳。すでに夫がいた。

その夫が、副田甚兵衛吉成。

秀吉は甚兵衛に、5万石の加増と引き換えに離縁を迫った。 ところが甚兵衛は加増を断り、故郷の尾張・烏森(からすもり)に帰って出家した。 隠斎(いんさい)と号し、ひっそりと余生を送ったという。

出世より、妻への思いを選んだ男。

大河ドラマ『功名が辻』(2006年)でも、この筋立てに沿った甚兵衛が描かれていた。 死の床にある旭のもとへ、身をやつした甚兵衛が会いに来る――そんな創作の場面まであった。

切なくて、美しい話だ。 でも、調べていくと、この話には少し影がさしてくる。

夫の名前は、ひとつではなかった

最初に驚いたのは、朝日姫の前夫の名前が、史料によって違うことだった。

ひとつは佐治日向守(さじ ひゅうがのかみ)。 天保4年(1833)成立の『改正三河後風土記』などに見える名前で、旭を返すことを承知したのち自害した、という話も伝わる。 ただ、同時代の史料にはその名が見えず、実在そのものが疑われている。

もうひとつが副田甚兵衛(吉成)。 寛文13年(1673)に山鹿素行が著した『武家事紀』が甚兵衛を秀吉の妹婿と記し、天保期の地誌『尾張志』も副田吉成の名を伝えている。

夫とされる人物

主な典拠

成立

副田甚兵衛

『武家事紀』

寛文13年(1673)

佐治日向守

『改正三河後風土記』

天保4年(1833)

副田吉成

『尾張志』

天保15年(1844)

どれも、朝日姫が生きた時代から少なくとも80年以上後の書物だ。

つまり、朝日姫の前夫が誰だったのか――厳密には、今も確定していない。

それでも、近年は副田甚兵衛とする見方が一般的になっている。 その理由は、この男が「確かにいた」ことにある。

天正8年、一枚の覚書に

天正8年(1580)4月26日付の、羽柴秀吉の覚書がある。 播磨攻めのさなかに書かれたものだ。

そこに、こんな一行がある。

「神吉の城の事 副田甚兵衛」

神吉城(かんきじょう)は、いまの兵庫県加古川市にあった城。 三木合戦の折、秀吉方に攻め落とされた城のひとつだ。 その城のことを、副田甚兵衛に任せる――そう読める。

伝承の中の「悲劇の夫」ではなく、秀吉の戦の現場で働く一人の家臣として、甚兵衛はたしかに同時代の文書に名を残していた。

ただし、この覚書が語るのは「秀吉の家臣に副田甚兵衛がいた」ということまで。 彼が朝日姫の夫だったことは、この一枚からは分からない。 そこは、やはり後世の記録に頼るしかない。

但馬の小さな城で起きたこと

三つの書物のうち、いちばん早く成立した『武家事紀』。 そこに書かれている甚兵衛の物語は、通説とはまるで違っていた。

甚兵衛は、秀長の与力として但馬に配されていた。 守っていたのは、多伊城(たいじょう)。いまの兵庫県新温泉町、日本海に近い山あいの城だ。

天正10年(1582)6月。 本能寺の変が起きる。

混乱のなか、甚兵衛は但馬を離れて播磨へ移った。 その隙に一揆が起こり、多伊城は奪われてしまう。 城はのちに、因幡にいた宮部継潤によって取り戻された。

しかし、城を失った義弟への秀吉の怒りは収まらなかった。

そして甚兵衛は、妻・朝日を取り上げられた。

『武家事紀』は、離縁の理由を家康との縁組に置いていない。 天正10年頃――家康との婚礼の、およそ4年も前のことだという。

歴史学者の黒田基樹氏も、他の史料との整合性から、天正10年の離縁とする見方が妥当だとしている。

政略のために引き裂かれた夫婦ではなく、失態の責めを負わされた夫。 もしこちらが真実に近いのだとしたら、ずいぶんと生々しい話になる。

それでも、男は仕え続けた

『武家事紀』には、もうひとつ意外なことが書かれている。

離縁されたあとも、甚兵衛は秀吉に仕え続けたというのだ。 出奔もせず、出家もせず。

天正10年の秋に営まれた信長の葬儀で奉行を務めたことや、賤ヶ岳の戦いのあと捕らえられた佐久間盛政を預かったことも、離縁後の働きだった可能性が指摘されている。

妻を取り上げた義兄のもとで、黙々と役目を果たす。 その胸の内は、どんなものだったのだろう。

一方で、尾張には別の記憶も残っている。

名古屋市中村区の大坪公園あたりには、甚兵衛が出家して暮らした「隠斎屋敷」の跡と伝わる場所がある。 近くには副田家の子孫のお宅があり、副田家だけを檀家としてきた禅養寺もあるという。 子孫に伝わる位牌によれば、甚兵衛は元和元年(1615)に亡くなったとも言われる。

ただ、「5万石を断って出家した」という話そのものは、江戸時代後期の軍記物的な創作と見る研究者が多い。

伝承と史料のあいだで、甚兵衛の姿は二つに分かれたまま揺れている。

ロマンとして語るなら、こうなるかもしれない。 秀吉に仕え続けた男が、晩年になってようやく故郷に戻り、静かに手を合わせた――。 もちろん、それを裏付ける史料はない。

おわりに

ドラマの中の甚兵衛は、今夜もあさひの隣で、少し困ったように笑っている。

調べる前は、「天下人の都合で妻を奪われた、気の毒な人」だと思っていた。 調べたあとは、正直よく分からなくなった。

妻を思って出世を捨てた男なのか。 失態を責められ、それでも主君に仕え続けた男なのか。 あるいは、そもそも朝日姫の夫は別の誰かだったのか。

確かなのは、天正8年の覚書に、その名が一行だけ残っているということ。

その一行の向こうに、ひとりの人間の人生があった。 どちらの物語が本当でも、甚兵衛はきっと、あの時代を懸命に生きていたのだと思う。

名古屋に行く機会があったら、烏森の隠斎屋敷跡を歩いてみたい。

地図を眺めてみると、烏森は秀吉ゆかりの中村区・豊国神社からもほど近い。 そうなると、同じ中村生まれの加藤清正、荒子の前田利家のゆかりの地も、すぐそばだ。

このあたりは、戦国の世を駆け抜けた豊臣家ゆかりの人々の故郷が、ぎゅっと集まった土地なのだ。

烏森だけでなく、周囲をゆっくり散策してみれば――さらにいろんな発見があるかもしれない。



参考

Comments

Popular posts from this blog

ひっそりと姿を消す東洋一のトレーディングセンター

900年ぶりの再会——大洗の神様たちのこと

消えていく地名に、私たちができること