十本の腕の女神が、里帰りする五日間

 先日、インド出身の方と話をしていたときのこと。

秋になると故郷ではとても大きなお祭りがあって、それはもう大変な盛り上がりなのだと、楽しそうに教えてくれた。

その名は、ドゥルガー・プージャ。

聞き慣れない響きだった。

気になって調べてみると、この祭りは東京でも毎年開かれていて、今年は10月17日、亀戸で第15回目が行われるという。

――ところが、その日は別の用事。

残念ながら、足を運ぶことはできなかった。

行けなかったからこそ、余計に気になる。

この祭りは、いったいどこから来たのだろう。

調べていくうちに、私は「インド」というひとくくりの言葉では収まらない、ひとつの地方の深い歴史にたどり着いた。

女神が里帰りする五日間

ドゥルガー・プージャは、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーを祀る秋の大祭だ。

インド東部の西ベンガル州、とりわけ州都コルカタで最も盛大に祝われる。

今年の西ベンガル州の暦では、10月10日のマハラヤで祭りの始まりが告げられ、17日から21日までの五日間が本番となる。

つまり、私がこの記事を書いている今まさに、コルカタは祭りの真っただ中にいるわけだ。

神話によれば、神々でさえ倒せなかった水牛の魔王マヒシャースラを、十本の腕に武器を携えた女神ドゥルガーが討ち果たしたという。

善が悪に打ち勝つ物語――それがこの祭りの根っこにある。

ただ、ベンガルの人々にとって、ドゥルガーは恐ろしい戦いの女神というだけではないらしい。

夫シヴァのもとから、子どもたちを連れて年に一度、実家へ帰ってくる「娘」として迎えられるのだ。

街の人々は、竹と布で「パンダル」と呼ばれる仮設の祭殿を建て、粘土の女神像を飾る。

夜通しパンダルを巡り歩き、ごちそうを分け合い、太鼓を打ち鳴らす。

そして最終日、女神像は川へ運ばれ、水に還される。

喜びと寂しさが入り混じる別れ。

――どこか、日本のお盆に似ているような気がしないだろうか。

2021年、「コルカタのドゥルガー・プージャ」はユネスコの無形文化遺産に登録された。

イギリスの将軍が招かれた祭り

ドゥルガー女神への祈りそのものは古い。

ベンガルで秋の大祭として記録に残るのは16世紀末ごろの地方領主によるもので、コルカタでは1610年にサバルナ・ロイ・チョウドリー家が祀ったのが最初とされている。

けれども、この祭りが「都市の一大イベント」へと変わっていく転機は、ある戦いのあとにやってきた。

1757年、プラッシーの戦い。

イギリス東インド会社のロバート・クライヴが、ベンガル太守シラージュ・ウッダウラを破った戦いだ。

インドが植民地支配へと向かう、歴史の分かれ目である。

このとき、会社側に仕えて頭角を現したベンガル人がいた。

ナバクリシュナ・デーブ。

彼は同じ1757年にコルカタのショババザールに邸宅を建て始め、そこで盛大なドゥルガー・プージャを催した。

その客席には、戦勝を祝うクライヴの姿があった――と伝えられている。

宴と音楽と踊りに彩られた、華やかな祭りだったという。

これに倣って、植民地時代に財をなした富裕層が競うように自邸でプージャを開くようになった。

もっとも、「祭りはクライヴのために開かれた」という説については、デーブ家自身が2011年の祭りの際に、入口に掲示を出して否定している。

真相はどうだったのだろう。

勝者への忠誠の証だったのか。

それとも、時代の荒波の中で、自分たちの女神を守ろうとした姿だったのか。

ショババザールの邸宅では、今も毎年プージャが続いている。

女神の顔は、1757年と同じ型で作り続けられているとも言われる。

十二人の仲間が始めた「みんなの祭り」

こうして見ると、18世紀のドゥルガー・プージャは、あくまで金持ちの屋敷の中の祭りだった。

その壁を破ったのは、コルカタから100キロほど離れた村、グプティパラの若者たちだったという。

18世紀後半のこと。

村の若者たちが、地元の大地主の屋敷で行われていたプージャへの参加を断られた。

ならば自分たちでやろう――。

十二人の仲間がお金を出し合い、近所の人々からも寄付を集めて、自分たちの手でプージャを開いた。

ベンガル語で「十二」は「バロ」、「仲間」は「ヤール」。

この「十二人の仲間の祭り」が「バロワリ」と呼ばれ、誰もが参加できる祭りの始まりになったとされる。

始まった年については1761年説と1790年説があり、はっきりしない。

それでも、この小さな反骨心が、やがて祭りの姿を根本から変えていく。

20世紀に入ると、コルカタでも町内の人々が資金を出し合って運営する「サルボジョニン(みんなの)」プージャが生まれる。

1910年ごろ、ボバニプルのバララム・ボース・ガート通りで開かれたものが最初期の例とされ、そこから街じゅうに広がっていった。

今のコルカタで、数千ものパンダルが町ごとに立ち並ぶ光景。

その源流をたどると、屋敷の門前で追い返された十二人の若者たちに行き着く。

なんとも痛快な話ではないだろうか。

女神の十本の腕に、独立の願いを

「みんなの祭り」になったドゥルガー・プージャは、やがてもう一つの意味を帯びていく。

イギリスからの独立運動である。

その中心にいた一人が、スバス・チャンドラ・ボース。

のちに「ネタジ(指導者)」と呼ばれ、インド独立運動の英雄となるベンガル人だ。

1925年、ボースは政治犯としてビルマのマンダレー刑務所に送られていた。

プージャの季節が近づくと、彼は獄中でも祭りを執り行おうとしたと伝えられている。

ボースにとって、悪を討つ十本の腕の女神は、植民地支配に立ち向かう力の象徴だったのだろう。

翌1926年、コルカタ北部で「シムラ・ビヤム・サミティ」という体育クラブがプージャを始める。

革命運動の流れをくむ若者たちの拠点で、その開幕にはボースも立ち会った。

このプージャでは、女神像に手織りの綿布「カディ」がまとわされた。

カディは、英国製品をボイコットし国産品を使おうという「スワデシ運動」の象徴だ。

人々はこの女神を「スワデシの神さま」と呼んだという。

さらに祭りの八日目には、若者たちが棒術や剣術を披露した。

1930〜40年代、ボースはこのシムラのプージャや、バグバザールのプージャの委員長を務めている。

祈りの場が、そのまま独立への誓いの場になっていた。

祭りの熱狂の奥に、これほど切実な時代の記憶が眠っているとは知らなかった。

国境で分かたれた、ひとつの言葉

ここまで調べて、ようやく気づいたことがある。

ドゥルガー・プージャは、インド全土で同じように祝われる祭りではない。

これは「ベンガル」という地方の祭りなのだ。

インドは州ごとに言葉も料理も祭りも違う。

同じ時期、北インドでは「ダシャラ」、西部グジャラートでは夜通し踊る「ガルバ」が主役になる。

ベンガル地方は、ガンジス川が海へ注ぐ大きなデルタ地帯。

コルカタは英領インドの首都だった時代があり、19世紀には「ベンガル・ルネサンス」と呼ばれる文化と思想の花が開いた。

しかし、この地方は20世紀に何度も引き裂かれている。

1905年、イギリスはベンガルを東西に分割しようとし、激しい反対運動の末に撤回した。

そして1947年、インドとパキスタンの分離独立。

西はインドの西ベンガル州に、東は東パキスタンとなり、のちに1971年、バングラデシュとして独立する。

西はヒンドゥー教徒が多く、東はイスラム教徒が多い。

それでも両者をつなぎ続けたのが、ベンガル語という言葉だった。

1952年2月21日、当時の東パキスタンのダッカで、ベンガル語を公用語にと求めた学生たちが命を落とす。

この日は今、ユネスコの「国際母語デー」として世界中で記憶されている。

もう一つ、象徴的な事実がある。

ベンガルの詩人ラビンドラナート・タゴールは、インドとバングラデシュ、二つの国の国歌の作者なのだ。

国境で分かたれても、同じ詩人の言葉を歌う人々。

ドゥルガー・プージャもまた、今年はバングラデシュで二日間の祝日となっている。

祭りは、国境の両側で続いている。

ベンガルと日本を結んだ人々

遠い国の話だと思っていたベンガル。

ところが調べていくと、日本との縁の深さに驚かされる。

明治の終わり、1901年の暮れに、岡倉天心が日本を発ってインドへ向かった。

翌1902年、およそ9か月の滞在の中で、天心はカルカッタ(現コルカタ)のタゴール家の人々と親交を結ぶ。

「アジアは一つ」――あの有名な言葉で始まる『東洋の理想』は、このインド滞在中に書かれたものだ。

天心のあとを追うように、横山大観や菱田春草もインドへ渡っている。

そして1916年、ノーベル文学賞を受けたタゴールが初めて来日した。

受賞後初めての外国訪問先に選んだのが、日本だったのだ。

東京帝国大学や慶應義塾で講演し、熱狂的な歓迎を受けたという。

もっとも、そのとき天心はすでに世を去っていた。

旧友の国を訪ねたタゴールは、何を思っていたのだろう。

さらに時代は下り、先の章で触れたスバス・チャンドラ・ボース。

彼は日本の支援を受けてインド国民軍を率い、1945年に台湾で飛行機事故により亡くなった。

その遺骨とされるものは今、東京・杉並の蓮光寺に安置されている。

東京裁判で全被告の無罪を主張したパール判事も、ベンガルの人である。

そして現代。

東京では、在日ベンガル人の協会によるドゥルガー・プージャが、30年以上にわたって続けられている。

今年、亀戸で開かれたのも、そうした祭りの一つだ。

百年以上前に天心とタゴールが結んだ縁は、形を変えて、今も東京の片隅で息づいているのかもしれない。

おわりに

インドの方との何気ない会話から始まった、今回の小さな旅。

「大きなお祭り」の向こうには、植民地の時代も、十二人の若者の反骨も、独立への祈りも、国境に引き裂かれた言葉の記憶も眠っていた。

そしてその糸の端は、思いがけず東京にもつながっていた。

今年の亀戸のプージャには、結局行けなかった。

けれど、もう次に行く理由はできた。

来年の秋こそ、女神の里帰りを、この目で見てみたい。

そのときは、教えてくれたあの人に「ショゥボ・ビジョヤ(よき勝利の日を)」と声をかけてみようと思う。

あなたの身近にも、遠い国の祭りを大切に守り続けている人がいるかもしれません。

参考

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