名もなき神領民たちの550年――伊勢の町が守ってきたもの
6月に、伊勢神宮の記事を書いた。
途絶えかけた式年遷宮を復活させた慶光院の尼僧たち。全国に伊勢信仰を広めた御師。そして信長、秀吉、徳川。最後は「2000年にわたってこの神宮を守ってきたすべての人たちへ」感謝したい、と締めくくった。
書き終えてから、少し引っかかった。
記事に登場したのは、みな名前の残っている人たちだ。
でも、神宮のすぐそばで暮らし、毎年の祭りを支え、遷宮のたびに汗を流してきた人たちがいたはずだ。**伊勢の町の、名前の残らない人たち。**彼らは何を守ってきたのだろう。
調べ始めて、驚いた。
ちょうど今年、2026年。伊勢の町では、その人たちの伝統がまさに目の前で続いていたのだ。
戦乱の世、町の人が木を曳いた
前回の記事で、室町時代の戦乱で式年遷宮が100年以上も途絶えたことを書いた。
実は同じ時代に、もうひとつの物語が始まっていた。
もともと遷宮は国家の事業だった。社殿を造るための人手も、各地から伊勢へ送られてきた。ところが室町時代の後期になると、戦乱で人が来られなくなる。伊勢まで届いた御用材(社殿に使うヒノキ)を、内宮や外宮の中へ運び込む人がいない。
そこで立ち上がったのが、地元の人たちだった。
神宮の領地に暮らしてきた「神領民(しんりょうみん)」と呼ばれる人々が、労働奉仕として御用材を曳いた。これが「お木曳(おきひき)行事」の始まりとされている。以来550年以上、途切れることなく受け継がれてきた。
慶光院の尼僧たちが、お金を集めるために全国を回っていた時代。町の人たちは、自分たちの体で遷宮を支え始めていた。
お木曳には二つのかたちがある。内宮へは五十鈴川の流れに御用材を浮かべて曳く「川曳(かわびき)」。外宮へは御木曳車に載せて町を曳く「陸曳(おかびき)」。
そして今年は、まさにそのお木曳の年だ。
2033年の第63回式年遷宮に向けて、2026年5月9日から6月13日までの週末、15日間にわたって陸曳が行われた。参加したのは伊勢の市民と全国から集まった崇敬者、あわせて約5万7900人。地元の奉曳団だけでも53団、約3万7900人が綱を握ったという。
揃いの法被を着て、「エンヤー」の掛け声とともに綱を曳く。週末になると、伊勢の町にはその声が響いていたそうだ。
今では、全国の崇敬者も「特別神領民」として参加できる。それでも中心にいるのは、地元の町ごとの奉曳団だ。来年2027年の5月から7月には、第二次のお木曳が予定されている。
河原の白い石を、正殿の足元へ
お木曳と対になるのが「お白石持(おしらいしもち)行事」だ。
伊勢を流れる宮川の河原から白い石を集め、内宮と外宮の新しい正殿が建つ敷地に敷き詰める。
この石を集めるところから、すでに伝統の一部になっている。地元の神領民が河原で石をひとつひとつ拾い、洗い、清める。一度の遷宮に必要なお白石は、10万個を超えるという。
前回の2013年には、地区ごとに結成された奉献団が77団。拾い集めた石を樽に納め、五十鈴川を川曳で、あるいは道を陸曳で、神宮へ運び込んだ。
心に残ったのは、次の一点だ。
一般の人が、正殿の建つ神聖な敷地の中に入れるのは、このときだけだという。
ふだんは白い布が垂れ、天皇陛下でさえ途中までしか進まれない門の、さらにその奥。そこへ町の人たちが、自分の手で拾った石を抱えて入り、正殿の足元にそっと置く。
新しい社殿に神様がお遷りになったあと、その足元に敷かれているのは、伊勢の人たちが河原で拾った石なのだ。
お白石持の歴史も古い。地質学の観点から白石を調べた小論によれば、寛正3年(1462年)の第40回式年遷宮から行われているという。
20年を、待っていられない
ここでひとつ疑問がわいた。
遷宮は20年に一度だ。前回お木曳に参加した若者も、次の遷宮では中年になっている。綱の曳き方、荷の締め方、木遣り唄。20年も空けば、技も気持ちも途切れてしまうのではないか。
伊勢の人たちも、同じことを考えていた。
その答えが「初穂曳(はつほびき)」だ。昭和47年(1972年)から毎年、神宮のいちばん大切なお祭りである神嘗祭(かんなめさい)にあわせて行われている。今年で第55回になる。
その年に実った稲をお木曳と同じ奉曳車に積み、法被姿で木遣り唄を響かせながら、外宮へ、内宮へと曳き入れる。車には稲束や米俵を積む。ここには、お木曳やお白石持で使う荷締めの技術を伝える意味もある。
曳き手は伊勢の町衆、皇學館大学の学生、そして伊勢の子どもたちだ。
さらに平成2年(1990年)からは、奉納するお初穂そのものを自分たちで育てている。田植えにも稲刈りにも、子どもたちが参加する。
20年に一度の行事を、毎年の行事でつないでいる。
伝統を「守る」というのは、ただ昔のやり方を繰り返すことではないのだと思う。途切れないように、自分たちで新しい仕組みをつくる。それもまた、伝統を守るということなのだろう。
ちなみに、神嘗祭を町ぐるみで祝う「伊勢おおまつり」も、明治28年(1895年)から続いている。
一年中、玄関に掛かっている注連縄
伊勢の町を歩いたことがある人は、気づいたかもしれない。
正月でもないのに、家々の玄関に注連縄が掛かっている。真ん中の木札には「蘇民将来子孫家門(そみんしょうらいしそんかもん)」という文字。
これは、二見町松下に伝わる伝説に由来する。
昔、旅の途中の須佐之男命(すさのおのみこと)が、一夜の宿を求めた。貧しいながらも快くもてなしたのが、蘇民将来という人物だった。須佐之男命は喜び、旅立つときにこう言い残したという。「これから蘇民将来の子孫と書いた門符を掛けておけば、子孫代々、疫病から逃れられるだろう」。
もちろん、これは伝説だ。
けれど、この地域の人々は古くから、自分たちが蘇民の子孫である証として門符を掛け、無病息災を祈ってきた。二見町松下の松下社(通称・蘇民社)では、今も毎年12月16日に、新しい注連縄を配る頒布初祭が行われている。
参拝客が何気なく通り過ぎる町の風景。そのものが、古くから受け継がれてきた伝統だった。
旅人をもてなした人の子孫だと名乗る町。参宮客を迎え続けてきた伊勢に、なんとも似合う話ではないだろうか。
田んぼと海から、神様の食卓へ
伊勢の町の外にも、神宮を支えてきた人たちがいる。
ひとつは、志摩市磯部町にある伊雑宮(いざわのみや)だ。内宮の別宮で、ここには神様の田んぼ(御料田)がある。毎年6月24日、この田で行われる田植えの神事を、地元の磯部九郷の人たちが交代で担ってきた。
地元では親しみを込めて「オミタ」と呼ぶ。室町時代の応永年間には、すでに御田祭が行われていたことを示す史料も残る。1990年に「磯部の御神田」として国の重要無形民俗文化財に指定され、日本三大田植祭のひとつにも数えられている。
もうひとつは、海だ。
鳥羽市の国崎(くざき)町には、こんな伝承がある。倭姫命(やまとひめのみこと)が、海女から差し出されたアワビのおいしさに感動し、神様への供え物にふさわしいと言った。それ以来、アワビは神宮の神饌(神様の食事)のなかでも特に大切な食材とされてきた。
国崎には今も、神宮に納めるアワビを調製する施設がある。アワビを薄く削り、伸ばし、干して「熨斗鮑(のしあわび)」にする。その作り方は、平安時代に確立されたものだという。
途絶えてしまった伝統もある。
かつて旧暦の6月1日には、鳥羽・志摩の海女が国崎に集まり、熨斗鮑にするアワビを採る「御潜神事(みかづきしんじ)」が盛大に行われていた。しかし明治4年、神宮へ供え物を納める制度が廃止され、神事はいったん途絶えてしまう。その後は記念事業などで、断続的に再現されてきた。
守られてきた伝統の陰には、守りきれなかった伝統もある。
それでも海女たちは今も海に潜り、国崎のアワビは今も神様の食卓に上っている。
おわりに
前回、私は「2000年にわたってこの神宮を守ってきたすべての人たちへ」感謝したいと書いた。
あのとき思い浮かべていたのは、慶光院の尼僧や御師たちだった。
今は、もう少し具体的な顔が浮かぶ。
法被姿で綱を曳く人たち。河原で白い石を拾う人たち。稲を育てる子どもたち。毎年、玄関の注連縄を掛け替える家の人。田植え歌を歌う磯部の人たち。アワビを採りに海へ潜る海女たち。
彼らの名前は、歴史の本には載らない。けれど、550年前に木を曳き始めた神領民の子孫たちが、今年もまた同じ綱を握っている。
それが、神宮が「変わらぬ姿」でいられる理由のひとつなのだと思う。
次に伊勢を訪れたら、内宮や外宮だけでなく、町の路地も歩いてみたい。玄関の注連縄を見かけたら、少しだけ足を止めてみるつもりだ。
来年の夏には、第二次のお木曳がある。あなたも一度、あの「エンヤー」の声を聞きに行ってみませんか。
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