祖先は平家の落ち武者――南の海にのこる、ひとつの言い伝え

 以前、種子島出身の方と話をしていたときのこと。

ふと、こんな話になった。

「うちの島ではね、祖先は平家の落ち武者だっていう家が多いんですよ」

冗談めかした口調だったけれど、その一言がずっと頭の片隅に残っていた。

種子島といえば、鉄砲伝来の島。

そしてロケットの島。

そこに、なぜ平家なのだろう。

壇ノ浦から種子島まで、海の上をどれほど隔てているのか。

気になって、少し調べてみることにした。

島主は「平氏」を名乗った

手がかりは、すぐに見つかった。

種子島を鎌倉時代から治めてきた種子島氏。

その家に伝わる『種子島家譜』によれば、初代・信基は平清盛の孫、平行盛の遺児だという。

平家が滅んだあと、北条時政の養子となって命をつなぎ、種子島を含む南の十二の島を与えられた――。

島の殿様その人が、平家の血を引くと名乗っていたのだ。

ただし、これには続きがある。

現在の研究では、この系譜は後の時代に整えられたものと考えられている。

実際には、北条氏一門・名越家(北条朝時の流れ)に仕えた肥後氏が地頭代として島に入り、その嫡流がやがて「多禰嶋(種子島)」を名字にした、という説が有力だ。

つまり、殿様の平氏出自そのものが、確かとは言えない。

それでも――。

領主が「平家の末裔」を誇りにしていた島で、人々が自らの祖先を平家に重ねて語るようになったとしても、不思議ではないように思う。

平家は、海から富を得た

そもそも、平家と南の海にはどんな縁があったのだろう。

清盛の父・平忠盛は、西国の海賊討伐で名を上げた武士だった。

そして白河院の荘園である肥前・神崎荘の管理に関わり、そこに来航する宋の船との交易にも手を伸ばしたとされる。

清盛の代になると、摂津の大輪田泊(いまの神戸)を整え、宋の船を都の近くまで呼び込もうとした。

平家の繁栄は、海の向こうとの交易に支えられていた。

では、宋は日本から何を買っていたのか。

そのひとつが硫黄だ。

日宋貿易が始まった10世紀末ごろから、日本の硫黄は中国へ運ばれるようになったという。

火薬の原料として、宋で求められていたらしい。

硫黄といえば、薩摩半島の南に浮かぶ三島村の硫黄島。

鹿ヶ谷の陰謀に加わった俊寛が流された「鬼界ヶ島」とも伝わる島だ。

平家に背いた者が送られた島が、平家の富を支えた交易品の産地でもあった――。

偶然かもしれない。

けれど、都の平家にとって南の海が「まったく知らない場所」ではなかったことは、確かなように思える。

薩摩には、もうひとつの「平氏」がいた

調べていくうちに、もうひとつ気になる存在に出会った。

「薩摩平氏」と呼ばれる人々だ。

都の伊勢平氏とは別の流れだが、同じ平姓を名乗る在地の武士団で、平安時代の薩摩に根を張っていた。

その代表格が、12世紀の阿多忠景(あた・ただかげ)。

忠景は、薩摩半島の万之瀬川の流域で、海外からの交易品を中継する商いに関わっていたと考えられている。

やがて朝廷の怒りを買い、南の「キカイガシマ」へ逃れた、という記述が『吾妻鏡』に残る。

追われた者が南の島へ逃げる――その道筋は、平家の時代すでに存在していたのだ。

そして1185年。

平家が壇ノ浦に沈んだその年、惟宗(のちの島津)忠久が島津荘の下司職に任じられ、ほどなく地頭となる。

南九州には、東国から幕府の御家人たちが次々と送り込まれてきた。

平家と結びつきのあった在地の武士たちにとって、それは居場所が揺らぐ時代の始まりだったのではないだろうか。

ロマンとして語るならば

ここから先は、史料が語ってくれる話ではない。

私の想像であり、ひとつの仮説として読んでほしい。

最初に思い描いたのは、こんな物語だった。

日宋貿易で南の島々を行き来していた伊勢平氏が、島の人々と縁を結んでいた。

滅亡のとき、彼らはそのゆかりの地をめざして海を渡り、島に溶け込んで生き延びた――。

美しい話だと思う。

けれど、都の平家一門が自ら南の島で交易していたという記録は見当たらない。

交易の現場を担っていたのは、むしろ阿多忠景のような九州の在地勢力だった。

そこで、少し形を変えてみる。

海を渡ったのは、平家の公達ではなく、平家方についていた九州の武士やその家来たちだったのではないか。

南の海路を知り尽くしていたのは彼らの方だ。

鎌倉の御家人がやってきて居場所を失ったとき、島へ移るという選択は、きっと現実的なものだったはずだ。

そして何世代も経つうちに、地元の「平氏」の記憶と、『平家物語』で語られる「平家」の物語とが、ゆっくり重なっていく。

種子島では、島主自身が平家の末裔を名乗っていたことも、その語りを後押ししたかもしれない。

もっとも、気になる点もある。

種子島は鎌倉時代の早いうちに北条氏一門の支配下に入った島で、落人が身を隠すには必ずしも安全な場所ではなかったかもしれない。

もっと遠い島々の方が、隠れ里にはふさわしい。

実際、硫黄島には安徳天皇が落ち延びたという伝説があり、トカラの島々にも落人の話が残る。

さらに南、宮古の多良間島にさえ、平家の流れをくむ人物が島を治めたという伝承があるそうだ。

どの家が本当に平家の血を引いているのか。

それを確かめる術は、もうないのだと思う。

ただ、伝承の奥には、南の海を行き交った人々の、確かな足跡が眠っているような気がしてならない。

おわりに

「祖先は平家の落ち武者なんですよ」

あの何気ない一言から、ずいぶん遠くまで来てしまった。

都の平家、薩摩の平氏、鎌倉の御家人、そして島の殿様。

いくつもの「平」の記憶が、南の海の上で折り重なっている。

本当のところは、きっと誰にもわからない。

でも、わからないからこそ、その島に立ってみたくなる。

鉄砲の伝わった種子島の浜。

噴煙を上げる硫黄島の岳。

トカラの小さな島々に残る、落人の言い伝え。

いつか、これらの島々を船で巡る旅をしてみたい。

平家の人々が見たかもしれない海を、同じように眺めながら。

あなたの家にも、「うちの祖先は……」という言い伝えは残っていませんか。


Comments

Popular posts from this blog

ひっそりと姿を消す東洋一のトレーディングセンター

900年ぶりの再会——大洗の神様たちのこと

消えていく地名に、私たちができること