“国譲り神話の現場”だったかもしれない、茨城の神社巡り
はじめに——なぜ茨城に「国譲り」の痕跡が残っているのか
『日本書紀』の国譲り神話といえば、出雲での大国主神の国譲りが有名です。しかしそのクライマックスの少し手前、経津主神・武甕槌神という二柱の武神が国土平定のために各地を巡る中で、ただ一柱だけ最後まで服従しなかった神がいたと伝えられています。星の神、香香背男(かかせお、別名・天津甕星)です。
そしてこの香香背男を最終的に服従させたのが、倭文(しとり)の神・建葉槌命(たけはづちのみこと)でした。
面白いのは、この神話の舞台がどうやら茨城県北部、常陸国だったらしいということです。実際に建葉槌命・香香背男ゆかりの神社が、今も那珂市や日立市に残っています。今回は「ここが本当に国譲り神話の現場だったかもしれない」と思いを馳せながら、この一帯を巡ってみようと思います。
あわせて、茨城(常陸国)にはもう一つ別の平定伝説もあります。『常陸国風土記』に記された、建借間命(たけかしまのみこと)による国栖(くず)平定の物語です。これは記紀の神話というより、地誌に残る半歴史的な伝承ですが、「大和の勢力がこの地の先住勢力を服従させた」という構図は共通しています。この記事では主に建葉槌命・香香背男の神話ゆかりの神社を中心に紹介しつつ、常陸という土地全体が持つ「境界領域」としての性格にも触れてみたいと思います。
静神社(那珂市)——勝者・建葉槌命の本拠地
まず訪れたいのが、那珂市静に鎮座する静神社です。
- 祭神:建葉槌命
- 社格:常陸国二宮。鹿島神宮と並び称される、東日本有数の古社
- ゆかり:経津主神・武甕槌神に最後まで服従しなかった香香背男を、服従させたのがこの建葉槌命とされています
建葉槌命は倭文氏の祖神であり、織物・武運・芸能の神として古くから信仰されてきました。長い参道と階段を上っていくと、鬱蒼とした社叢に包まれた境内に至ります。「東国平定を成し遂げた神の本拠地」というイメージそのままの、静かで厳かな空気が漂う場所です。
参拝の際は、ここが単なる古社というだけでなく、「国譲り神話の勝者側の拠点だったかもしれない」という視点を持ってみると、社殿や森の見え方も少し変わってくるかもしれません。
大甕神社(日立市)——敗者・香香背男が封じられた岩
静神社から車で30分ほど、日立市大みか町にあるのが大甕神社です。ここは建葉槌命ではなく、むしろ服従させられた側の香香背男(天津甕星)にゆかりの深い場所です。
- 伝承:建葉槌命に服従しなかった香香背男の荒魂が、「宿魂石(しゅくこんせき)」と呼ばれる巨岩に封じ込められたとされる
- 社殿の位置:その宿魂石の上に本殿が建てられている
- 参道:岩山をよじ登るような、ちょっとしたアスレチックのような参道になっている
社殿に至るまでの岩場の参道を歩いていると、「今もこの岩の下に、服従させられた星神の魂が眠っているのかもしれない」という物語が、頭の中で立体的に浮かび上がってきます。静神社が「勝者の物語」だとすれば、大甕神社は「敗者の物語」。両方を訪れることで、国譲り神話の勝敗両側の視点を体感できるのが、この二社巡りの醍醐味だと思います。
石神社(東海村)と風隼神社(城里町)——飛び散った「宿魂石」のかけらたち
大甕神社の宿魂石をめぐる伝説は、実はここで終わりません。周辺にはさらに、「あのとき砕けた岩のかけらが飛んできた」と伝える神社が点在しています。二社を巡ると、香香背男の物語がじわじわと広がっていく感覚が味わえます。
石神社(那珂郡東海村)
大甕神社から南へ少し下った東海村、国道6号沿いにひっそりと鎮座するのが石神社です。
- 祭神:天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
- 伝承:大甕神社の宿魂石が砕けた際、そのかけらの一つがこの地まで飛んできて神石として祀られたと伝わります
- 地名の由来:この石を見た水戸光圀(水戸黄門)公が、この地を「石神(いしがみ)」と改めたとも言われています
現在は社殿裏がコンクリートブロックで囲われており、肝心の神石そのものを目にすることは難しいようですが、「この場所そのものが、あの国譲り神話の破片が着地した土地」だと知って歩くと、国道沿いの何気ない社叢が急に違って見えてきます。ちなみにこの一帯は、常陸国と陸奥国のかつての国境(東海村と日立市の境)に近く、地理的にも「境界」を思わせる立地なのが面白いところです。
風隼神社(東茨城郡城里町)
一方、大甕神社から西へ、那珂川を挟んだ城里町石塚にあるのが風隼神社です。こちらの伝説は少し具体的で、映像的です。
- 祭神:武甕槌命
- 創立:806年(大同元年)と伝わる
- 伝承:石船神と建葉槌神の軍が、日立市石名坂まで香香背男(魔王石)を追い詰めて滅ぼした際、建葉槌命がその石にケリを入れたところ、砕けた石の一つがこの地まで飛んできたと伝わる。その石を御神体としている
「敵の石なのにご神体にする」というのも面白い発想ですが、これは大神(勝者側)の武威・勝利を称える意味合いだと伝えられています。地名「石塚」自体も、この飛来した石の伝説に由来するとされ、まさに土地の名前そのものが神話の記憶を刻んでいる場所です。杉並木の参道は静かで空気が澄んでおり、境内には竈神社・富士神社・阿夫利神社など小社も多く祀られていて、あわせて巡るのも楽しいところです。
「宿魂石が砕けて飛んだ」という物語の広がり方
大甕神社(本体)・石神社(東海村)・風隼神社(城里町)の三社を並べてみると、まるで一つの隕石が落下し、その破片が周辺の複数の土地に飛び散った――というような、神話のスケール感が伝わってきます。実際にどちらが古い伝承でどちらが後から結びつけられたものかは定かではありませんが、こうして複数の土地が「自分たちの神社こそ、あの伝説の続きだ」と語り継いできたこと自体が、この神話が茨城の人々の記憶にどれだけ深く根を張っていたかを物語っているように思います。
足を延ばすなら——鹿島神宮・香取神宮という「司令部」
さらに時間があれば、経津主神・武甕槌神を祀る鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)・香取神宮(千葉県香取市)まで足を延ばすのもおすすめです。この二社は、大和朝廷の東国・東北進出における前線基地・司令部として古くから位置づけられてきました。
そうすると、地理的にもこんな物語の流れをたどることができます。
- 鹿島神宮・香取神宮——経津主神・武甕槌神という東国平定軍の「司令部」
- 静神社——服従しない香香背男を、最後に平定した建葉槌命の「拠点」
- 大甕神社——服従させられた香香背男が封じられた「終着地」
- 石神社・風隼神社——その終着地からさらに砕け飛んだ石が着地した「余波の地」
征服する側の司令部から、最後の抵抗を平定した神の拠点、そして服従させられた神が眠る岩まで。まるで神話の中の軍事作戦をたどるような巡り方ができます。
おまけ:常陸という土地そのものが「境界」だった
余談ですが、こうした平定神話が集中しているのは偶然ではないかもしれません。常陸国はかつて「日高見国」と呼ばれ、これはもともと蝦夷の生活圏を指す呼称でもありました。『常陸国風土記』には、建借間命による国栖平定のほか、比奈良珠命や黒坂命による蝦夷平定の話も記されており、一つの国の中に征服譚がいくつも重なって残っています。
律令制が整った奈良時代には、常陸国はすでに国府・国分寺が置かれる「内地」として組み込まれていましたが、それでも陸奥国と直接国境を接し、東北への蝦夷討伐に際しては兵糧や兵員を送り出す後方基地としての役割を担い続けました。
つまり茨城(常陸)という土地は、ある時代には最前線として、また別の時代には後方支援地として、長く「大和と、まだ服従していない勢力との境界」であり続けた場所だった——そう考えると、この地に複数の平定神話・平定伝承が残っていることにも、うなずけるものがあります。
モデルコース
- 午前:静神社(那珂市)を参拝。長い参道を上りながら、建葉槌命が東国平定を成し遂げた拠点というイメージを膨らませる
- 昼:那珂市〜日立市への移動を兼ねて、周辺で食事
- 午後:大甕神社(日立市)へ。宿魂石の岩場を登りながら、封じられた香香背男の物語に思いを馳せる
- 夕方前:東海村の石神社へ。飛び散った宿魂石のかけらが着地したという場所で、国道沿いの静けさを味わう
- 時間があれば:城里町の風隼神社まで足を延ばし、もう一つの「飛来石」伝説と、地名「石塚」の由来をたどる
- さらに時間があれば:鹿島神宮・香取神宮まで足を延ばし、東国平定軍の「司令部」を訪ねる
歴史書に残る記述はごくわずかで、細部の多くは伝承や後世の解釈による部分も大きいのが実情です。それでも、実際にその土地に立ち、社殿や巨岩、鬱蒼とした社叢を前にすると、千数百年前の「まつろわぬ神々」と「平定する側」の攻防に、想像力を通してほんの少し触れられるような気がします。
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