戦国の山城に上って感じたこと
長野県上田市にある砥石城(戸石城)に登ってきた。
「登城」というより、正直「登山」という言葉がしっくりくる道のりだった。麓の陽泰寺から続く急な坂道を、息を切らしながら一歩ずつ上る。整備されているとはいえ、決して楽な道ではない。この城が、あの武田信玄でさえ一ヶ月以上力攻めしても落とせなかった――そう聞いていたが、実際に自分の足で登ってみて、ようやくその意味が腑に落ちた気がする。
難攻不落は、地形そのものだった
砥石城は天文19年(1550年)、武田信玄が攻めあぐねた末に大敗を喫した城として知られている。世に言う「砥石崩れ」だ。横田備中守をはじめ千人ほどの兵が命を落としたと伝わる、信玄生涯最大の負け戦。
だが実際に急坂を登ってみると、この結果は必然だったようにも思える。石垣や堀を人工的に築くまでもなく、山そのものが最大の防御施設になっている。当時の武田軍の兵士たちは、この坂道を鎧兜を身にまとい、矢や石を浴びながら登らなければならなかったのだ。そう考えると、想像するだけで足がすくむ。
翌年、この城を落としたのは力攻めではなく、真田幸隆による調略だったという。正面から挑んでも消耗するだけの地形――それを見極め、内部から切り崩すという判断を下した幸隆の合理性にも、山を登りながら深く納得させられた。
山頂からの景色が語るもの
苦労して登り切った山頂からは、上田の市街や塩田、東部、佐久方面まで見渡せる、素晴らしい景色が広がっていた。
この眺望こそが、砥石城が要衝であった理由なのだと実感する。見渡す限りの土地の動きを把握できること。狼煙による情報伝達network。そして、高い場所に城を構えること自体が、麓の人々に対する権威の象徴でもあったのだろう。
村上氏、武田氏、真田氏――支配者が入れ替わるたびに、この景色を見つめていた武将たちの思いは、どのようなものだったのだろうか。自分の領地を守り抜こうとする執念か、それとも新たに手にした土地を見渡す高揚感か。
城跡が語りかけてくるもの
砥石城の周辺を歩くと、驚くほど多くの山城跡が点在していることに気づく。真田本城(松尾城)、天白城、矢沢城……。上田盆地を取り囲む山々には、いくつもの砦や城が築かれていた。
考えてみれば当然のことなのかもしれない。信濃と上野を結ぶ街道が通る交通の要衝であり、村上・武田・真田、さらに背後には上杉という複数の勢力がせめぎ合った「境目の地」。それぞれの武将が、それぞれの理由と目的を持って、この地に城を築いていったのだろう。
一つひとつの城跡には、そこに立った武将たちの決断と、そこで命を落とした名もなき兵士たちの記憶が、静かに眠っているように感じられる。
幸せな時代に生まれたということ
かつてこの山道は、命がけで奪い合われた場所だった。攻め落とすか、守り抜くか――生死を分ける緊張がそこにはあったはずだ。
それを今、私たちはただ「今日は天気がいいから」というだけの軽やかな気持ちで登ることができる。この落差を思うとき、自分がどれほど恵まれた時代に生きているかを、しみじみと実感する。
歴史書の文字を追うだけでは得られない何かが、実際に山を登り、当時の武将たちと同じ景色を自分の目で見て、同じ急坂に息を切らせることで初めて見えてくる気がする。
これからも時間の許す限り、できるだけ多くの山城に足を運びたい。そして一つひとつの山頂に立つたびに、そこにいた武将たちがどんな景色を見て、どんな思いを抱いていたのか、静かに瞑想してみたいと思う。




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