岩崎城 ― 徳川家康の危機を救い、その後の躍進のきっかけの一つとなった16歳の武将、丹羽氏重の戦い
はじめに
戦国時代、歴史の転換点にはしばしば無名に近い武将の奮闘があった。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いのさなかに起きた「岩崎城の戦い」もその一つだ。主役は、わずか16歳で城と兵239人の命運を背負った若き武将、丹羽氏重(にわ うじしげ)である。
病をおして城を守った若者
永禄12年(1569年)、丹羽氏勝の子として生まれた氏重は、尾張国の傍示本城主だった。兄・丹羽氏次が徳川家康に従軍して岩崎城を離れることになった際、代わりに城の守備を任されたのが氏重である。
このとき氏重は痘瘡(天然痘)を患っていたという。本来なら療養に専念してもおかしくない状況で、彼は城主代理としての務めを引き受けた。
素通りされるはずだった城
豊臣秀吉軍の池田恒興・森長可らが率いる三河奇襲部隊は、当初、小城に過ぎない岩崎城には構わず素通りするつもりだったとされる。しかし氏重はこれを黙って見過ごさなかった。
「見過ごすは末代までの恥」 「敵の動きを小牧山は未だ知らないであろう。われらが敵を食い止め討死すれば、必ず小幡城には聞こえる。また、小牧にも知らせが届こう」
氏重は城兵239人にこう告げ、討死を覚悟の一戦を命じたと伝わる。自らの命よりも、味方に敵の動きを伝えることを優先した決断だった。
三度の撃退、そして討死
岩崎城側は池田軍の攻城隊を三度にわたり撃退するなど、寡兵ながらよく戦った。しかし、新たに戦線に現れた森長可軍の銃撃に怯んだ隙をつかれ、氏重は討ち取られてしまう。享年16。
その最期を知った榊原康政は、兄・氏次に「氏重殿以下、ご立派な最後。仇はこの一戦で必ず討ち果たしましょうぞ」と伝令を送ったという。
家康の危機を救った一戦
この岩崎城での抵抗は、単なる局地戦では終わらなかった。奇襲部隊の足止めは、秀吉軍の動きを織田・徳川方に察知させる一因となり、小牧・長久手の戦いにおける織田・徳川軍の勝利に貢献したとされる。
もし奇襲部隊がそのまま素通りし、家康の本国が無防備な状態で突かれていたら、戦局は大きく違った展開を見せていたかもしれない。氏重の決断は、家康の戦略的な危機を救う結果につながったのである。
その後の家康の躍進、そして重なる幸運
小牧・長久手の戦いののち、家康は秀吉と和睦する。だが秀吉はその後も家康討伐の意志を捨てておらず、天正13年(1585年)には重臣・石川数正が出奔するなど、徳川方は再び窮地に立たされた。
そこへ起きたのが、天正13年11月(1586年1月)の天正地震である。秀吉が家康討伐の前線基地としていた大垣城をはじめ各地が壊滅的な被害を受け、秀吉の再攻勢計画は頓挫した。
- 岩崎城の戦い(1584年) ― 氏重らの奮戦が奇襲を食い止める
- 石川数正の出奔(1585年) ― 徳川方が動揺
- 天正地震(1586年) ― 秀吉の攻勢計画が頓挫
家康はこうした幾多の危機を、実力と巡り合わせの両方によって乗り越えていった。その最初の一コマに、16歳の丹羽氏重の戦いがあったのである。
おわりに
丹羽氏重の名は、歴史の教科書に大きく刻まれているわけではない。しかし、病身をおして城を守り、味方のために命を賭した16歳の武将の決断が、のちの徳川の歴史に確かな影響を残したことは間違いない。
愛知県東郷町には、今も彼の城跡を示す石碑が残る。派手さはなくとも、確かに歴史の一場面を支えた若者がいたことを、静かに伝えている。
参考:阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年/渡邊大門『清須会議』朝日新書、2020年/岩崎城歴史記念館ほか
岩崎城: https://www.mf.ccnw.ne.jp/iwasakijo/
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