関東最古の出雲系神社、鷲宮神社で古代出雲を感じられるか

 埼玉県久喜市。東京から電車で1時間ほどの、いたって普通の郊外の町に、「関東最古の大社」を名乗る神社がある。

鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)。アニメ「らき☆すた」の聖地として若い参拝者を集めることでも知られるこの神社は、実はその由緒を辿ると、出雲の神々にまで行き着く。

出雲といえば島根県。日本海側の、大和からも遠く離れたあの地の神々が、なぜ関東平野のこんな内陸の町で祀られているのか。そして、実際にこの神社を訪れれば、その「出雲らしさ」を肌で感じることができるのだろうか。



祭神は、国譲り神話の「あの神様」

鷲宮神社の主祭神は、天穂日命(あめのほひのみこと)と武夷鳥命(たけひなとりのみこと)、そして大己貴命(おおなむちのみこと)——大国主命の別名だ。

天穂日命は、古事記・日本書紀における「国譲り神話」に登場する神である。高天原(天つ神の世界)が地上の国(葦原中国)を治めようとした際、まず使者として出雲に送られたのがこの神だった。ところが天穂日命は、大国主神の人徳にすっかり心服してしまい、3年経っても高天原に何も報告しなかったと伝えられる。いわば「任務放棄」の神様なのだが、後世的にはこれが出雲との深い結びつきを示す物語として語り継がれ、天穂日命の子孫は代々出雲国造として出雲大社の祭祀を司ることになった。

鷲宮神社の由緒では、その天穂日命と子・武夷鳥命が、部族28人を率いてこの地にやってきて、大己貴命を祀る神崎神社を建てたのが始まりとされている。時期は「神代の昔」——つまり、暦の上には存在しない神話的な時代としか記されていない。

「神代」を史実の年代に置き換えると

ここが面白いところだ。「神代」という表現は、実は何も語っていないに等しい。だが、これを実際の歴史の流れに置き換えて考えることはできる。

以前、常陸国(茨城県)の神社を巡ってこんな記事を書いたことがある。「茨城の神社が語る古代常陸の三つの顔」。そこでは、常陸の古代史を三つの層——縄文・弥生の先住文化(日高見国)、弥生後期から古墳前期にかけての出雲系勢力の浸透、そして5世紀以降の大和朝廷による東国進出——として整理した。

その第二層、出雲系勢力の浸透期は、考古学的には弥生時代後期から古墳時代前期、およそ2〜4世紀頃とされる。出雲特有の「四隅突出型墳丘墓」の影響が北陸から関東方面にまで及んでいたことが、その物証として挙げられる。

鷲宮神社の「神代」創建伝承を、この年代枠に重ねてみるとどうなるか。ちょうど噛み合う。出雲系の人々が北陸経由、あるいは太平洋沿岸の水運を伝って東国へ拡散していった、その流れの一部として、武蔵国のこの地にも出雲系の氏族がたどり着いた——そう考えると、「神代」という曖昧な表現の背後に、意外と具体的な歴史像が浮かび上がってくる。

常陸の大洗磯前神社では、大己貴命が「昔この国を造り終えて、東の海へ去っていったが、また戻ってきた」と語ったという856年の記録が残っている。鷲宮神社の伝承はこれとは逆に、「やってきて、そのまま居着いた」という形をとる。同じ出雲系拡散の物語でも、土地によって語られ方が違う。この違いそのものが、古代の出雲系氏族が東国各地でどんな軌跡をたどったかを考える手がかりになりそうだ。

それで、実際に行ってみたら何がわかるのか

さて、本題に戻ろう。この鷲宮神社に行けば、古代出雲を「感じる」ことができるのか。

正直に言うと、答えは「半分イエス、半分ノー」だと思う。

まず、境内を歩いても、出雲大社のような「あの独特の空気」——荒々しい日本海と、巨大な注連縄と、幽玄な祭祀の気配——を直接感じることは、おそらくできない。鷲宮神社は江戸時代以降、関東の総社・関東鎮護の神として、源頼朝や徳川家康など数々の武将から崇敬を集めた歴史を持つ神社であり、その社殿や境内の雰囲気は、むしろ関東の武家社会が積み重ねてきた信仰の厚みを色濃く反映している。祭神が出雲系だからといって、境内が出雲風に整えられているわけではない。

しかし、もう一段深いところで、確かに「感じられるもの」がある。

それは、日本という国が古代にどう形作られたか、という壮大な物語の断片だ。出雲の神が国を譲り、その使者の子孫が遠く離れた関東の地で祀られ続けている——この事実そのものが、大和朝廷が地方の在来勢力をどう扱ったかを示す生きた証拠になっている。常陸の記事で書いたように、大和朝廷は出雲の神々を「消した」のではなく、「役割を与えて体制内に組み込んだ」。鷲宮神社に立つとき、その「組み込みの現場」の一つに立っていることになる。

そして何より、社伝に残る「昌彦・昌武父子外二十七人の部族」という具体的な人数の記述が、私には妙にリアルに感じられる。神話は数字を語らないことが多いが、この由緒はやけに具体的だ。もしかするとこれは、実際にこの地に移住してきた集団の規模を、うっすらと反映した口伝なのかもしれない。28人という数字を胸に、彼らがどこから、どんな道をたどってこの地にたどり着いたのかを想像しながら境内を歩くと、単なる観光では味わえない、時間の重なりのようなものが見えてくる気がする。

出雲を「感じる」というより、出雲を「たどる」

結論めいたことを言うなら、鷲宮神社は「出雲の空気を感じる場所」というより、「出雲系の人々がたどった道の、一つの終着点を確認できる場所」なのだと思う。

出雲大社そのものに行けば、確かに出雲の神威をダイレクトに浴びることができるだろう。しかし鷲宮神社の価値は別のところにある。ここに立つことで、「出雲」という一つの信仰・一つの氏族が、山陰から遠く離れた関東平野の内陸まで、どれほどの距離と時間をかけて広がっていったのかを実感できる。それは常陸の大洗や酒列、そしてもしかすると香取海の水運でつながっていたかもしれない鷲宮まで、点と点をつなぐ壮大な地図として立ち上がってくる。

次に鷲宮神社を訪れる機会があれば、拝殿の前で手を合わせながら、こう考えてみようと思う。ここに祀られている神は、大国主神の人徳に心服し、任務すら忘れてしまった、どこか人間くさい神様だった。その子孫が、はるばるこの武蔵国の地にまで流れ着き、千年以上にわたって祀られ続けている。関東最古と呼ばれるこの社の静けさの中には、出雲から始まった長い長い物語の、確かな続きが眠っている。


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