千代田城から江戸城へ——昭和30年代の写真ブックから見えてきた、城の名前の変遷

 昭和34年(1959年)に朝日新聞社が発行したアサヒ写真ブックのシリーズ「古城をたずねて」。そのページをめくると、現在の皇居——誰もが「江戸城」と呼ぶあの城——が「千代田城」という名前で紹介されている。記事の中には「過去には江戸城とも呼ばれていた」という一文まである。



現代の感覚からすると、これは少し奇妙に思える。江戸城といえば徳川将軍の居城、誰でも知っている名前のはずだ。なぜ昭和30年代の出版物には「千代田城」と書かれていたのか。そこを入口に、この城の名前の歴史を辿ってみたい。


そもそも「千代田城」と「江戸城」は別々の城だった

一般には「千代田城は江戸城の別名」と説明されることが多い。しかし、東京の地域史を長年研究してきたブログ「落合学(落合道人)」の筆者は、この通説に異議を唱えている。両者は同じ場所に建てられた、時代の異なる別の城郭だというのだ。

まず室町時代の「江戸城」。1457年(長禄元年)、扇谷上杉家の家臣・太田道灌が、武蔵国豊嶋郡江戸の地に城を築いた。これが「江戸城」の始まりである。1952年に岩波書店から刊行された学術書『千代田城』(監修・高柳光壽)にも、「千代田城はもっと後のもので1700年頃から見えて来る」と明記されており、太田道灌の城と江戸幕府の城は明確に区別されていた。

続いて江戸時代の「千代田城」。1590年(天正18年)に徳川家康が入城したとき、彼が使ったのはまだ道灌由来の旧城だった。その後、2代・秀忠、3代・家光の時代にかけて大規模な改築が進み、1636年(寛永13年)ごろに「史上空前の巨城」と称される現在の城郭がほぼ完成した。

この巨大な新しい城を、道灌の江戸城と区別するために、地元の江戸っ子たちは「千代田城」と呼び始めた。城が建つ土地の小名「千代田(チオタ)」に由来する呼び名だ。ちょうど会津の城が地元では「鶴ヶ城」、姫路城が「白鷺城」と呼ばれるように、地元の人々が親しみを込めてつけた名前だったのだろう。


「千代田城」がもっとも輝いていた時代

江戸中期から幕末にかけて、「千代田城」という呼び名は江戸の城下町に深く根付いていた。他藩の武士たちが外側から「江戸城」と呼んでいた同じ城を、地元の人々は「千代田城」と呼んでいたのである。

こうした伝統は近代に入っても息づいていた。冒頭のアサヒ写真ブック(1959年)はもちろんのこと、1952年の岩波写真文庫もタイトルを『千代田城』としており、1965年には雄山閣から『千代田城とその周辺』(田村栄太郎著)が出版されている。昭和30年代までは、歴史書や出版物の世界で「千代田城」という名称が正式かつ自然なものとして使われていたことがわかる。


明治以降、公式名称はどう変わったか

一方で、明治維新以降、この城の公式呼称は目まぐるしく変わっていく。

時期名称経緯
~1868年千代田城(地元)/江戸城(外部)並立して使用
1868年10月東京城明治天皇が行幸の際に改称
1869年皇城2度目の行幸で改称
1888年宮城(きゅうじょう)明治宮殿完成に伴い改称
1948年皇居宮内府が「宮城」の告示を廃止

明治新政府にとって、「江戸城」も「千代田城」も、徳川幕府のシンボルに他ならなかった。新しい権威のもとで城は次々と改名され、公式の場から江戸時代の名前は消えていった。


「江戸城」が全国的に定着した、昭和30〜40年代の転換点

では現代人が当たり前のように使う「江戸城」という呼び名は、いつごろ定着したのか。いくつかの要因が重なる昭和30〜40年代が、その転換点と考えられる。

ひとつ目は、文化財指定(1956〜63年)。 1956年(昭和31年)に「江戸城外堀跡」として史跡に指定され、1960年(昭和35年)には「江戸城跡」として国の特別史跡に正式指定された。行政が公式に「江戸城」という名を採用したことで、教科書・看板・案内板・メディアといったあらゆる場面でこの呼び名が使われるようになる。アサヒ写真ブックが「千代田城」という題名を使ったのは、この文化財指定のわずか1年前のことだった。

ふたつ目は、高度成長期の人口流入(1960〜70年代)。 全国から東京へと大量の移住者が流れ込み、「千代田城」という地元の呼び名を知らない人々が多数派を占めるようになった。落合道人氏の言葉を借りれば、「江戸東京の地元以外からの移住者が急増した1960〜70年ごろ」から、千代田城という名称が霞んでいったという。

みっつ目は、大河ドラマと歴史教育の影響(1963年〜)。 NHK大河ドラマが1963年(昭和38年)に始まり、徳川家康や江戸幕府を題材にした作品が繰り返し全国放映された。こうした番組では一貫して「江戸城」という呼称が使われ、学校の歴史教科書でも同様だった。世代を問わず「江戸城」という名が刷り込まれていったのである。


昭和34年の写真ブックが語るもの

アサヒ写真ブック「古城をたずねて」が「千代田城」という題名を使ったのは、偶然ではないだろう。1959年という発行年は、地元の伝統的な呼び名がかろうじて生き残っていた最後の時期と重なる。翌年には文化財の名称として「江戸城跡」が公式化され、その後の大規模な人口移動と歴史ドラマブームが「江戸城」を決定的に定着させていく——その直前の一枚の写真のような記録だ。

記事の中に「過去には江戸城とも呼ばれていた」と書かれていたのは、編者の目線からすれば「千代田城」こそが正しい呼び名であり、「江戸城」は他所からの呼び方に過ぎなかったからだろう。

現在、この城は誰もが「江戸城」と呼ぶ。しかしその場所に300年以上親しんできた人々にとっては、「千代田城」こそが本来の名前だった。一冊の古い写真ブックが、そんな歴史の断層をそっと教えてくれる。


参考文献・資料

  • アサヒ写真ブック「古城をたずねて」(朝日新聞社、1959年)
  • 『千代田城』岩波写真文庫58(岩波書店、1952年)監修・高柳光壽
  • 『千代田城とその周辺』(雄山閣、1965年)田村栄太郎著
  • 「落合学(落合道人)」ブログ「『江戸城』と『千代田城』の相違について。」(2025年)
  • 国立公文書館「変貌 — 江戸城を皇居と定め東京城と改称」
  • 環境省皇居外苑「特別史跡江戸城跡」(昭和35年5月20日指定)

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