茨城の神社が語る古代常陸の三つの顔

 茨城県を旅すると、不思議なことに気づく。鹿島神宮のような大和朝廷ゆかりの神社がある一方で、出雲の大国主を祀る大洗磯前神社があり、さらに奈良の古代氏族・多氏にまつわる神社も各地に点在している。なぜ、こんなに多様な神々が一つの地に集まっているのだろうか。

実はこの謎を解く鍵が「三層構造」にある。常陸国(現在の茨城県)の古代史は、まるで地層のように三つの時代が重なり合っており、その痕跡が今も神社として残っているのだ。

第一の顔:日高見国——縄文・弥生の先住文化圏

最も古い層は「日高見国(ひたかみのくに)」と呼ばれる先住の世界だ。

『常陸国風土記』には「この地はもと日高見の国なり」と明記されている。大和朝廷が「常陸国」という名をつける以前、茨城の地には独自の縄文・弥生文化圏が広がっていた。

日高見国は単なる辺境ではなかった。『日本書紀』や『常陸国風土記』に「国」として記されており、長身で容姿端麗、勇敢な人々が暮らす地として大和側からも一目置かれていた。東国は鉄の産地でもあり、独自の太陽信仰を持っていたとされる。

現在の茨城には、この最古の層を偲ばせる神社が残っている。大甕神社(日立市)はその代表例で、天津甕星(あまつみかぼし)という星神を祀るが、この神はヤマト王権への最後の抵抗者とも伝えられる土着の神だ。

第二の顔:出雲の国造り——大国主が渡ってきた海

次の層は、弥生時代後期から古墳時代前期(2〜4世紀頃)にかけての「出雲系勢力の浸透」だ。

大洗磯前神社(大洗町)と酒列磯前神社(ひたちなか市)の由緒に、この歴史が刻まれている。平安時代の歴史書『日本文徳天皇実録』(856年)には、大己貴命(大国主)と少彦名命が常陸の海岸に降臨し、こう告げたと記されている。

「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造り訖へて、去りて東海に往きけり。今民を済わんが為、亦帰り来たれり」

——「われはかつてこの国を造り、東の海に去っていたが、今また民を救うために帰ってきた」というのだ。

この「かつてこの国を造った」という言葉が示すのは、出雲の神々(あるいはそれを信仰する人々)が、大和朝廷よりずっと以前から常陸の地に根ざしていたことだ。

考古学的にも、弥生時代後期から古墳時代にかけて、出雲特有の「四隅突出型墳丘墓」の影響が北陸から関東方面にまで及んでいたことが確認されている。大国主の「国造り」とは、この時代の出雲系文化の東方拡散を神話として語ったものと読み取れる。

鹿島神宮に近い潮来市には「大生(おおう)古墳群」がある。5世紀頃のものと見られる110基以上の古墳群で、大生神社を中心として広がるこの遺跡は「元鹿島の宮」とも呼ばれ、鹿島神宮の前身的な存在とも目される。この大生神社の祭祀氏族こそが「多氏」であり、出雲系の先住勢力と大和朝廷系の多氏が、この地で接していたことを示している。

第三の顔:大和朝廷の進出——多氏という「先兵」

三番目の層が、5世紀以降の大和朝廷による東国支配だ。そしてその最前線に立ったのが「多氏(おおし)」である。

多氏は日本最古の皇別氏族とされ、神武天皇の子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖とする。本拠地は大和国十市郡飫富郷(現在の奈良県磯城郡田原本町「多」)で、『古事記』の編者・太安万侶もこの一族だ。

多氏の後裔・建借馬命(タケカシマ)は、崇神天皇の時代に東国を平定し、水戸〜ひたちなか周辺を治める仲国造(常道仲国造)に就任した。「建借間(タケカシマ)」の名が「鹿島」に通じるという説もあり、鹿島神宮の原初的祭祀氏族は多氏だったという歴史学者・太田亮の説がある。

多氏の東国進出は単なる移住ではなかった。「朝廷の命を奉じて東国に勢力を扶植した」という説が有力で、まさに大和朝廷の「東国経営エージェント」として機能した。

その後、常陸国は蝦夷征討の最前線・兵站基地となる。788年には桓武天皇の勅命により、常陸国鹿島から歩兵・騎兵合わせて5万2800余人を徴発して北方に集結させよとの命が出されている。多氏が開いた道が、そのまま蝦夷征討の街道となったのだ。

三つの顔が共存する理由

ここで最初の謎に戻ろう。なぜ常陸には、大和朝廷系の神社と出雲系の神社が共存しているのか。

答えは「征服と取り込み」にある。大和朝廷の論理では、出雲の大国主は「敗者」ではなく、「自ら国を譲り、幽冥(見えない世界)を治める神」として位置づけられた。

担当
鹿島神宮のタケミカヅチ現世の武力・東北征伐
大洗磯前神社の大国主幽冥・医療・民の生活

大和朝廷は出雲の神を「消した」のではなく「役割を与えて体制内に組み込んだ」のだ。さらに言えば、常陸以北には出雲系・縄文系の文化を持つ人々(蝦夷)が多く住んでいた。その人々が信仰する神を公認・祭祀することで、在地の民を大和支配に取り込む「懐柔策」としても機能した。

現代に残る三層構造

まとめると、常陸国の古代史は次のような三層構造で理解できる。

第一層(縄文〜弥生・〜2世紀) 日高見国の先住文化。独自の太陽信仰と縄文・弥生の伝統。→ 大甕神社など

第二層(弥生後期〜古墳前期・2〜4世紀) 出雲系勢力の浸透。大国主・少彦名による「国造り」。農業・医療・製塩の文化。→ 大洗磯前神社・酒列磯前神社・大生神社など

第三層(古墳中期〜飛鳥・5〜7世紀) 大和朝廷の進出。多氏を先兵とした東国支配。蝦夷征討の前線基地化。→ 鹿島神宮・大井神社など

この三層は単純な「上書き」ではなく、それぞれが現在も神社として生き続けている。茨城の神社を巡るとき、その背後にこれだけ深い歴史の重なりがあることを知れば、参拝の意味が一層豊かになるだろう。

神武天皇の息子の子孫が、神話上で出雲から国を「受け取った」大和王権の命を帯びて、かつて出雲系が根付いていた常陸の地に乗り込んできた——常陸国の古代とは、そういう壮大なドラマの舞台だったのである。


参考:多氏については奈良県磯城郡田原本町の多神社(多坐弥志理都比古神社)が本拠地。太安万侶を祀る小杜神社も同地に鎮座し、毎年7月6日には太安万侶祭が行われている。

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