鷲宮神社にて——境内に散らばる神々と、母の偉大さを感じた息子の物語
先日、以前このブログで書いた鷲宮神社に、実際に足を運んでみた。
敷地は思っていたよりずっと広く、社殿も堂々としていた。そして何より印象的だったのは、本殿だけでなく、境内のあちこちに数多くの境内社が点在していたことだった。一つ一つの社に手を合わせながら、ふと「これはもしかして、出雲神話をまるごと歩いて回っているのではないか」という気がしてきた。
境内に勢揃いした神話の登場人物たち
鷲宮神社の主祭神は、大己貴命(大国主神)、天穂日命、武夷鳥命。だが境内社を見て回ると、そこには国譲り神話に連なる神々がずらりと並んでいた。
素戔嗚尊——大己貴命の祖先にあたる神。八岐大蛇を退治したあの神が、出雲の血筋の始まりだったことを思うと、感慨深い。
諏訪大社の系統から、建御名方神。大己貴命の息子でありながら、国譲りの際に力比べで敗れ、諏訪まで逃げてそこに鎮まったという、神話の「敗者」だ。
そして鹿島神宮の武甕槌神。まさにその建御名方神を打ち負かし、国譲りを実現させた「勝者」である。敵味方だったはずの二柱が、同じ境内に並んで祀られている。神話の対立が、時を経て静かに和解し、統合されている——そんな景色を見た気がした。
八幡神社には応神天皇。これは出雲の血筋とは直接関係がない。だが後で調べてみると、応神天皇を神格化した八幡神は、源氏の氏神そのものだった。境内に残る源頼朝お手植えと伝わる「もっこく」の木、源義家の「駒つなぎのさくら」——これらの伝承と八幡神社は、バラバラの言い伝えではなく、河内源氏一族による代々の崇敬という一本の線でつながっていたのだと気づいた。出雲系の古い信仰の土台の上に、時代が下ってから武家の信仰が重なっていく。この神社の境内は、そんな信仰の地層が、埋もれずにそのまま露出している場所だったのだ。
そして、神明神社に祀られていた天照皇大神
境内社の中に、天照皇大神を祀る神明神社もあった。この時はまだ気づいていなかったのだが、後になって、この神様が実は主祭神・天穂日命の母神にあたることを知った。
天穂日命は、天照大神と素戔嗚尊の「うけい」の際、天照大神の勾玉から生まれた神とされる。国譲り神話では、地上の国を治めるべく最初の使者として、母である天照大神から出雲へ送り出された。ところが天穂日命は、出雲の主・大己貴命の人徳にすっかり心服してしまい、3年経っても高天原に何も報告しなかったという。
普通ならこれは重大な任務放棄だ。だが記紀を見る限り、天穂日命が罰せられた形跡はない。それどころか、その子孫は代々出雲国造として、出雲大社の祭祀を任され続けることになる。
母さん、ありがとう——そして母は強し
なぜ天穂日命は許されたのか。記紀はそこに何も書いていない。感謝の言葉も、母の心情も、一切記されていない。空白のままだ。
だが、その空白を想像で埋めてみると、一つの物語が浮かび上がってくる。
天穂日命は、遠く離れた出雲の地で、そして後にその子孫が移り住んだ関東の地で、毎朝昇る太陽を見上げるたびに、母である天照大神の存在を感じ続けていたのではないか。太陽神を母に持つということは、どこへ移り住もうと、頭上に常に母の気配があり続けるということだ。境内に建てられた神明神社は、その気配を形にした、いわば「母への感謝の社」だったのかもしれない。
そして、かつて3年間報告を怠った息子の家系が、その後何世代にもわたって忠実に出雲大社の祭祀を守り続けたという史実——これもまた、直接の言葉こそなくとも、行動によって母の期待に応え続けた、遅れてきた誠実な恩返しだったのではないか。
一度は道を外れながらも、生涯を通じて母の偉大さを感じ、様々な形でそれに応え続けた息子。関東の地に移り住んでからも、社を建て、太陽を仰ぎ、遠い本家では子孫が祭祀を守り続ける——そんな物語を思い描きながら、鷲宮神社の境内をもう一度振り返ってみた。
広い境内に静かに並ぶ数々の社。それは単なる神様の寄せ集めではなく、出雲の神話、国譲りの対立と和解、そして武家の信仰が積み重なった、関東における信仰の地層そのものだった。そしてその中心には、母を想い続けた一人の息子の、千数百年にわたる静かな物語が眠っていた。
次にこの神社を訪れる人には、ぜひ神明神社の前でも少し足を止めてほしい。そこには、出雲へ送られた息子が、遠い関東の地からも見上げ続けた太陽の記憶が、今もひっそりと祀られている。







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