伊勢神宮に行く前に知っておきたい話──2000年の歴史を守り続けた人たちのこと
先日、久しぶりに伊勢神宮への参拝を計画していて、ふと思った。
あの荘厳な社殿、玉砂利を踏みしめる参道、五十鈴川のせせらぎ。「お伊勢さん」は今も昔も変わらぬ姿で私たちを迎えてくれる。でも、その「変わらぬ姿」は、決して当たり前のものではなかった。
調べれば調べるほど、伊勢神宮の歴史は危機との戦いの連続だったことがわかってきた。そしてその都度、誰かが、あるいは何かがそれを救ってきた。
今回はそんな話をしたいと思う。
20年に一度の「建て替え」──式年遷宮という奇跡
伊勢神宮には「式年遷宮」という行事がある。20年に一度、社殿から装束、神宝に至るまですべてを新しく造り替え、神様にお遷りいただく神事だ。第1回は西暦690年。それが今も続いているのだから、単純計算で60回以上繰り返されたことになる。
しかも費用は膨大で、2013年の第62回では550億円かかったという。次の2033年はなんと1000億円超が必要とも言われている。
当然、この神事を維持し続けることは、歴史の荒波の中で何度も危機に瀕した。
120年以上も中断していた、という衝撃の事実
平和な時代には朝廷が費用を負担し、式年遷宮は滞りなく続いた。だが室町時代、世は戦乱に突入する。税収は激減し、朝廷も足利将軍家も財政的に無力となり、遷宮の費用が工面できなくなってしまった。
結果として、内宮では1462年から1585年まで123年間、外宮では1434年から1563年まで129年間、式年遷宮が完全に中断してしまった。社殿は朽ちるに任され、宇治橋までもが荒廃していったという。
そんな絶体絶命の状況で、一人の尼僧が立ち上がった。
慶光院上人──戦国を駆け抜けた尼僧ヒロイン
「慶光院(けいこういん)」は伊勢にあった尼寺であり、代々の住職の称号でもある。
遷宮の再興に向けて最初に動いたのは**清順(せいじゅん)**という尼で、朝廷の承認を得て全国を回り寄付を集め、129年ぶりに外宮の式年遷宮を実現した。その功績を称え、後奈良天皇から「慶光院」という院号を賜ったのもこの清順だ。
そして清順の後を継いだのが周養(しゅうよう)。まだ遷宮が叶っていない内宮のために、周養は天皇の綸旨を得たうえで、あの織田信長と豊臣秀吉に直談判し、寄付を取り付けた。その結果、1585年(天正13年)、123年ぶりの内宮式年遷宮がついに実現した。
すごいと思うのは、この二人の尼僧が「身分も高くなく、正式な仏教修行をしたわけでもない、市井の宗教者だった」とされている点だ。しかも伊勢神宮は「神仏隔離」が原則で、僧尼の関与を正式には認めていなかった。それでも彼女たちは動いた。世界一怖そうな武将たちに直談判するほどの胆力で。
ちなみに、「遷宮は信長・秀吉のお金で復活した」と紹介されることもあるが、それは不正確で、実際に動いたのは慶光院上人たちだった──そう指摘する研究者もいる。信長・秀吉はあくまで「大口の寄付者」。主役は彼女たちだったのだ。
江戸時代の立役者──徳川幕府と御師たち
戦国の危機を乗り越えた後、江戸時代に入ると徳川将軍家が式年遷宮を全面的に支援するようになる。安定した政権が神宮を支えた時代だ。
もう一つ見逃せないのが「御師(おんし)」の存在。伊勢神宮の中級神職が民間の布教師兼ガイドとして全国を回り、檀家を持ち、参拝者を伊勢へ送り込んだ。松前から鹿児島まで──日本全国に伊勢信仰を広めたのは彼らであり、その参宮収入が神宮を経済的に下支えした。「おかげ参り」ブームの背景にも御師の活動があった。
参拝前に、ちょっとだけ立ち止まってみる
内宮の宇治橋を渡るとき、私はこれからこんなことを思うようになると思う。
この橋は500年以上前、慶光院の尼僧・守悦が勧進によって架けた橋が原点だ。参道の玉砂利の下には、途絶えかけた遷宮を命がけで復活させた清順と周養の祈りがある。荘厳な社殿は、信長・秀吉・徳川の時代を経て、名もなき御師たちや全国の信者が積み上げてきた信仰の結晶だ。
「ありがとうございます」と手を合わせるとき、その感謝は天照大御神だけでなく、2000年にわたってこの神宮を守ってきたすべての人たちへも向けたい。
次の伊勢参り、ちょっとだけ違う景色が見えるかもしれない。
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