古代の神話からわかる茨城の魅力——茂木誠先生の講演で気づかされたこと
はじめに——飛び出した故郷へ、40年越しの帰郷
私は茨城で生まれ育ちました。
そして40年前、私はその土地を飛び出しました。「田舎で何もない」——若かった私には、それが本心からの実感でした。都会に憧れ、広い世界に出たくて、振り返ることなく故郷を後にしたのです。
それから長い年月が流れました。仕事を続け、人生を重ね、気がつけば年齢を重ねていました。そして不思議なことに、最近になって茨城のことが気になって仕方なくなってきたのです。歴史を調べるほど、土地の物語を知るほど、「もしかして茨城って、本当はすごいところだったんじゃないか」という思いが強くなっていきました。
そんな折に出会ったのが、世界史講師・YouTuberとして知られる茂木誠先生の講演会でした。テーマは「筑波山と古代日本」。会場で語られたのは、私の知っている教科書的な日本古代史とはまったく違う風景でした。
茂木さんは、新井白石が「日高見国は常陸国にあった」と論じていたこと、筑波山がイザナギ・イザナミの神話の舞台だったこと、つくば市の蚕影(こかげ)神社が全国の養蚕神社の総本山であること——茨城が古代日本にとって周縁ではなく中心だった可能性を、次々と提示していきました。
聞きながら、私は何度も心の中で呟いていました。「私はこの土地のことを、何も知らないまま飛び出していたのか」と。
40年前の私は、茨城を「何もない田舎」と決めつけていました。でも本当は、何もなかったのではなく、私が知らなかっただけだったのです。1300年前の文学があり、神話の聖地があり、国譲りの神々が眠る土地——その豊かさに、40年経ってようやく気づいた。
日本人は自分たちの良いところをアピールするのが苦手だと言われます。地方に生まれた人ほど、「自分の故郷は田舎で何もない」と思い込んでしまいがちです。かつての私自身がそうでした。だからこそ、こうして気づいた魅力はきちんと言葉にして、共有していきたい。同じように故郷を離れた誰かに、あるいは今まさに「ここには何もない」と感じている若い誰かに、届けたい。
そんな思いで、講演で出会った魅力と、私自身が調べて知った茨城の古代史的な見どころを、五つの章にまとめてみました。40年越しの、故郷への帰郷の記録として、お付き合いいただければ嬉しいです。
第1章 常陸国風土記——1300年前の茨城が語られている古典
茨城を語るうえで、まず触れたいのが『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』です。
ご存じでしょうか。現存する風土記は、わずか五つしかありません。出雲、播磨、肥前、豊後、そして常陸。元明天皇が和銅六年(713年)に各国に編纂を命じた地方誌のうち、ほぼ完全な形で残っているのは出雲国風土記のみ、それ以外は部分的にしか伝わっていません。その貴重な五つの中に、常陸国風土記が含まれているのです。
「茨城には1300年前に書かれた文学がある」——これだけで、もう十分に誇れる事実だと私は思います。
富士山と筑波山の対比神話
風土記の中でも特に有名なのが、富士山と筑波山を対比させる物語です。
ある夜、神祖(みおや)の神が旅をしていて、まず駿河の福慈(ふじ)の山にたどり着き、宿を求めました。しかし富士の神は「今夜は新嘗(にいなめ)の物忌みなのでお泊めできません」と断ります。怒った神祖は「ならばお前の山は、命が果てるまで雪と霜に覆われ、誰も登らないだろう」と告げました。
次に神祖は筑波の山に向かいます。筑波の神は同じく新嘗の夜でしたが、「親神さまのお言葉ですから」と快く迎え入れ、食物を捧げてもてなしました。神祖は喜び、寿(ことほ)ぎの歌を詠みます——
筑波の山は、人が登り行き集まって歌い舞い、酒を飲み、物を食む
こうして、富士山はいつも雪に覆われて人が登らない山となり、筑波山は人々が集って歌い舞い、宴を絶やさない山となった、と風土記は語ります。
この物語の素晴らしさは、富士山を貶めるのではなく、それぞれの山に異なる神聖さを与えているところです。富士は「人を寄せつけない清らかさ」、筑波は「人と神が共に楽しむ歓びの場」——どちらも日本人の山岳信仰の根源にある感覚だと思います。
童子女松原(うないまつばら)の物語
風土記にはもう一つ、忘れがたい物語があります。
香島郡(現在の鹿嶋市)の海辺の松原で、那賀寒田之郎子(なかのさむたのいらつこ)という若者と、海上安是之嬢子(うなかみのあぜのおとめ)という乙女が出会います。歌垣(かがい)の場で互いの歌に心を奪われた二人は、夜が明けるのを恐れて松の木陰に隠れ、抱き合ったまま——朝には松の木に変わっていた、という悲しくも美しい伝承です。
これは万葉集の高橋虫麻呂が歌に詠んだ物語でもあり、古代日本の歌垣の風習を伝える貴重な記録です。歌垣は男女が歌を掛け合って恋を語る行事で、筑波山はその最大の聖地でした。
風土記が伝える茨城の豊かさ
常陸国風土記には、ほかにも夜刀神(やとのかみ)伝説、倭武(やまとたける)天皇の巡行説話、各郡の地名起源など、物語性に富んだ記述が満載です。撰者には藤原宇合や高橋虫麻呂が関わったとする説もあり、文学性の高い駢儷体(べんれいたい)の文章でも知られています。
1300年前の茨城が、これほど詳しく、これほど美しく語られている——この事実だけで、私は茨城という土地への見方が変わりました。
第2章 筑波山——イザナギ・イザナミが宿る歌垣の聖地
茂木さんの講演で最も印象に残ったのが、筑波山についての話でした。
筑波山は標高877メートル。決して高くはありません。富士山の四分の一にも満たない山です。しかし古代の人々にとって、筑波山は富士山に劣らない、いやある意味では富士山以上の聖地でした。
男体山と女体山——イザナギ・イザナミの神話
筑波山が他の山と決定的に違うのは、二つの峰を持つことです。西側が男体山、東側が女体山。この二峰が、日本の創世神話の主役であるイザナギとイザナミに重ねられてきました。
『古事記』『日本書紀』では、イザナギとイザナミが「天の浮橋」に立って矛(ほこ)で海をかき混ぜ、滴り落ちた塩が固まって「おのころ島」となり、二神はそこに降り立って国生みを始めたと伝えられています。記紀ではおのころ島は淡路島周辺の小島とされていますが、江戸時代に「発見」された古史古伝『ホツマツタヱ』では、なんとおのころ島は筑波山であり、イザナギ・イザナミは筑波山で結婚したと記されているのです。
ホツマツタヱは学術的には後世の創作とする見方が主流ですが、独自の世界観を持つテキストとして根強い人気があります。茂木さんも、ホツマツタヱを史実そのものとして提示するのではなく、「こういう物語が筑波周辺に伝わってきた」という形で紹介されていました。記紀とは別に、東国独自の創世神話の記憶が存在したのかもしれない——そう考えると、筑波山の景色がまったく違って見えてきます。
歌垣の聖地
筑波山は、古代から**歌垣(かがい)**の聖地でした。
歌垣とは、特定の日に男女が集まり、歌を掛け合って恋を語り、結ばれる行事です。万葉集にも筑波山の歌垣を詠んだ歌が収められています。
鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 娘子壮士(おとめおとこ)の 行き集ひ かがふ嬥歌(かがい)に 人妻に 我も交らむ 我が妻に 人も言問へ……(高橋虫麻呂)
普段は許されない関係も、この日この場所では神に祝福される——歌垣は、性と恋愛が神聖な営みだった時代の記憶を伝えています。筑波山が「人々が集って歌い舞う山」とされた風土記の記述は、この歌垣の伝統と深く結びついています。
筑波山神社
現在の筑波山には、男体山頂と女体山頂それぞれに本殿があり、麓に拝殿(筑波山神社)があります。男体山の神は伊弉諾尊(イザナギ)、女体山の神は伊弉冉尊(イザナミ)。神仏習合の時代には「筑波山大権現」と呼ばれ、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の帰りに参詣したという伝承も残っています。
筑波山は晴れた日には関東平野のどこからでも見える存在感があり、その二峰のシルエットは古代の人々にとって、男女が並び立つ神聖な姿そのものだったのでしょう。
第3章 日高見国の謎——新井白石が常陸に見た古代の輝き
茂木さんの講演で、私が最も意外に感じたのが「日高見国(ひたかみのくに)」の話でした。
日高見国とは何か
日高見国は、記紀や祝詞(のりと)に登場する「東方の国」の名です。日本書紀の景行天皇紀には、武内宿禰(たけしうちのすくね)が東国を巡った後、「東の夷(ひな)の中に、日高見国あり。其の国の人、男女並に椎結(かみあげ)け身を文(もとろ)けて、為人(ひととなり)勇み悍(たけ)し。是を総べて蝦夷(えみし)と曰ふ。亦(また)、土地(くに)沃壌(こ)えて曠(ひろ)し」と報告したと記されています。
つまり日高見国は、ヤマト政権から見て東方にある、土地豊かで強い人々が住む国として描かれていたのです。
新井白石の常陸国=日高見国説
江戸時代の儒学者・新井白石(1657-1725)は、著書『古史通(こしつう)』で、この日高見国を**常陸国(現在の茨城県)**に比定しました。記紀や風土記の地理的記述、そして大祓詞(おおはらえのことば)に「日高見国」が登場することから、東国の中でも最も豊かで重要な地域として常陸を位置づけたのです。
そして驚くべきことに、これは単なる白石の独断ではありませんでした。『常陸国風土記』の信太郡(しだのこおり)の条には、はっきりと「この地を日高見国という」と記されているのです。茨城県南部、現在の阿見町・美浦村周辺がかつて日高見国と呼ばれていた、という記述が1300年前の地方誌にしっかり残っているわけです。
高天原はどこにあったか
茂木さんの講演では、さらに踏み込んで「高天原(たかまがはら)は常陸国の海岸沿い、多賀郡(現在の日立市・高萩市あたり)にあった」という説も紹介されました。これは新井白石が示唆した北部説で、太陽(日)が高く昇る場所、すなわち「日高見」の語源とも結びつけられる解釈です。
ただし、講演の聴衆からも指摘があったように、新井白石の北部説と常陸国風土記の南部説(信太郡)は、地理的にはずれています。どちらが正しいというより、「常陸国全体が日高見国として認識されていた時代があった」と受け取るのが穏当かもしれません。
「東国は周縁」という思い込みを問い直す
私たちはつい、古代日本の中心を奈良・京都・近畿地方に置いて考えがちです。しかし日高見国の存在を知ると、その地図が揺らぎます。ヤマト政権が東方に「豊かで強い人々の国」を見ていた、そしてその記憶が現代の茨城に風土記として残っている——これは茨城の人々が誇るに足る歴史的事実だと、私は思います。
東北の北上川(きたかみがわ)も、語源的には「日高見」と関係するという説があり、東日本全体が古代において重要な文化圏だった可能性を示唆しています。日本の古代史は、近畿中心の見方だけでは語り尽くせない奥行きを持っているのです。
第4章 蚕影神社と金色姫——インドから流れ着いた養蚕の起源伝承
つくば市神郡(かんごおり)に、ひっそりと佇む小さな神社があります。蚕影神社(こかげじんじゃ)です。
知る人ぞ知る存在ですが、ここは全国の蚕影信仰の総本社。「日本一社」と誇号する、養蚕の神を祀る本家本元の神社なのです。
金色姫伝説——インドから流れ着いた姫
蚕影神社には、世にも数奇な物語が伝わっています。**金色姫(こんじきひめ)**の伝説です。
その昔、天竺(インド)の旧仲国(きゅうちゅうこく)に霖夷(りんい)大王という王がいました。王には金色姫という美しい娘がいましたが、母である光契(こうけい)夫人が亡くなり、王は後妻を迎えます。継母は金色姫を憎み、なんと四度も殺そうとしました。
獅子の住む山(獅子吼山)に捨てれば、獅子が姫を背負って宮中に戻しました。鷹のいる山(鷹群山)に捨てれば、鷹狩りの兵が連れ帰りました。草木のない海眼山に流しても、生き延びて戻ってきました。最後には庭に生き埋めにしましたが、地面が金色に光るので、大王が掘り起こすと姫が生きていました。
大王は娘の不憫(ふびん)を嘆き、桑の木でうつぼ舟(丸木舟)を作り、姫を乗せて海に流した——のです。
その舟が漂着したのが、常陸国豊浦(とようら)の浜。現在の神栖市あたりとされています。漁師の権太夫(ごんだゆう)夫妻が浜に流れ着いた姫を見つけて介抱しましたが、姫はまもなく亡くなってしまいました。
夜、夫妻の夢に姫が現れ、「我に食を与えよ、必ず恩返しをする」と告げます。翌朝、姫を納めた唐櫃(からびつ)を開けると、中にはたくさんの小さな虫がいました。桑の葉を与えると、虫は獅子のとき、鷹のとき、舟のとき、庭のときに対応した四度の休眠を経て、繭(まゆ)になりました。
これが日本における養蚕の始まりである——という伝説です。
伝説の背後にある歴史
もちろん、この物語をそのまま史実とすることはできません。しかしこの伝承には、いくつもの興味深い示唆が含まれています。
第一に、蚕が四度の休眠を経て繭になるという生物学的事実が、姫の四度の試練に対応していること。これは実際に養蚕を観察した人々が作った物語であることを示しています。
第二に、インド・東南アジアから日本への文化伝播のルートが暗示されていること。実際の絹文化は中国から朝鮮半島経由で伝わったとされますが、別ルートでの南方からの伝来や交流があった可能性は、考古学的にも完全には否定できません。
第三に、茨城が日本の養蚕発祥の地として強い誇りを持っていたこと。蚕影神社が「日本一社」を名乗り、関東甲信地方の養蚕農家から厚い信仰を集めていたのは、明治以降の養蚕業の発展とも結びついています。
蚕影神社の現在
蚕影神社は、つくば市神郡の田井小学校近くの山中にあります。かつては参拝者をバスで迎えていたほど賑わいましたが、養蚕農家の減った現在は静かな佇まいです。御朱印は本務社の筑波山神社で受けることができ、桑の葉二枚の間に「日本一社」と記された印が押されます。
シルクロードの東端としての日本、その玄関口としての常陸——金色姫の物語は、そう読み解くこともできる豊かな伝承です。
第5章 鹿島神宮・香取神宮——東国を守る神々の物語
茨城を語るうえで、絶対に外せないのが鹿島神宮(かしまじんぐう)です。隣接する千葉県の香取神宮(かとりじんぐう)と合わせて、東国の最も格式高い神社として古代から崇められてきました。
武甕槌(たけみかづち)と経津主(ふつぬし)——国譲りの主役たち
鹿島神宮の主祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)、香取神宮の主祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)。この二柱は、記紀神話における国譲りの場面で中心的な役割を果たした神々です。
天照大神が「葦原中国(あしはらのなかつくに)を我が子孫に治めさせたい」と決意したとき、出雲の大国主神に国を譲るよう交渉するために遣わされたのが、武甕槌と経津主でした。二神は出雲の伊耶佐之小浜(いざさのおはま)に降り立ち、剣を逆さまに突き立ててその上に座り、大国主に国譲りを迫った——あの有名な場面です。
つまり鹿島・香取は、日本という国家の成立に関わった神々を祀る神社なのです。
なぜ東国の地に祀られたのか
しかし不思議なことがあります。なぜ国譲りの神々が、出雲ではなく東国の鹿島・香取に祀られているのでしょうか。
これには諸説あります。古代において、ヤマト政権にとって東国は未だ完全には平定されていない地域でした。鹿島・香取の地は、蝦夷(えみし)に対する最前線だったのです。武力と勝利の神である武甕槌・経津主を東国の要として祀ることで、ヤマト政権は東方への進出と防衛の精神的支柱としたのではないか——という解釈があります。
茂木さんの講演を踏まえれば、もう一つの読み方も浮かびます。もし日高見国(=常陸国)が東国における強大な勢力で、ヤマト政権がそれを取り込む過程で建てられたのが鹿島・香取だったとしたら——これらの神社は、東西の勢力が出会い、和解し、新しい秩序を作った象徴とも見えてきます。
「ナマズを抑える要石」の伝説
鹿島神宮には要石(かなめいし)という不思議な石があります。地中深くまで埋まっていて、地震を起こす大ナマズの頭を押さえつけているという伝承があります。香取神宮にも同じく要石があり、こちらはナマズの尾を押さえているとされます。
水戸黄門こと徳川光圀が、家臣に七日七晩掘らせても底に届かなかったと伝えられています。江戸時代の地震多発期には「鹿島の神様がナマズを押さえてくださる」という信仰が広まり、鯰絵(なまずえ)も流行しました。
香取海と古代の交通
古代、鹿島と香取の間には香取海(かとりのうみ)という広大な内海が広がっていました。現在の霞ヶ浦・北浦・印旛沼を含む一帯が、ひとつの大きな水域だったのです。
この香取海は、ヤマト政権の東方進出における最重要の海上交通路でした。船で物資と人を運び、太平洋から東北へ抜ける拠点となった。鹿島・香取はその海の入り口を見張る位置にあり、まさに「東国の門」だったのです。
筑波山がそびえ立ち、香取海が広がり、鹿島・香取の神々が守る——この風景こそ、古代茨城の本来の姿でした。
おわりに——「何もない」と思っていた土地への手紙
五つの章を書き終えて、改めて感じるのは、茨城という土地の奥行きの深さです。
常陸国風土記が今に伝える物語。筑波山がたたえる神話の記憶。日高見国という古代東国の輝き。蚕影神社に流れ着いた異国の姫。鹿島・香取に立つ国譲りの神々。これらが一つの土地に重なって存在していることを、私は40年間、何も知らずに過ごしてきました。
40年前の私に、もし伝えられるなら——「あなたが何もないと思って飛び出した土地には、1300年前の文学があるよ。神話の聖地があるよ。インドから流れ着いた姫の物語があるよ。国を作った神々が眠っているよ」と言ってあげたい。たぶん若い私は、それでも飛び出していったでしょう。それはそれで、必要な旅だったのかもしれません。
でも今、この年齢になって、自分の足元にあった豊かさに気づけたことは、何よりの幸せです。故郷は、離れた者にも遅れて帰ってくる場所を用意してくれていたのだと思います。
「茨城は魅力度ランキング最下位だから」と、茨城の人自身が引け目を感じる必要は、まったくないのだと思います。茨城には、世界に誇れる古代の物語があります。1300年前の文学があり、神話の聖地があり、独自の創世伝承があり、シルクロード東端の養蚕伝説があり、国家成立の神々が眠っています。
もちろん、紹介してきた中には史実として確定しているものと、伝承や諸説の段階のものが混在しています。それでも、こうした物語がこの土地に語り継がれてきたこと自体が、文化的な財産です。物語は土地を生かし、土地は物語を育てます。
日本人は自分のいいところをアピールするのが苦手だと言われます。地方を離れた者ほど、自分の故郷を低く見てしまいがちです。かつての私自身がそうでした。だからこそ、こうして気づいた魅力はきちんと言葉にして、自分の足元から発信していきたい。茨城の物語が、地元の方の自信になり、訪れる人の発見になり、そして、かつての私のように「ここには何もない」と思って飛び出してしまった誰かの心に、いつか届くことを願って。
茂木誠さん、貴重なお話をありがとうございました。あなたの講演がなければ、私はまだ自分の故郷の本当の姿を知らないままだったかもしれません。
そして、ここまでお読みくださった皆さま。もし機会があれば、ぜひ筑波山に登ってみてください。蚕影神社で桑の葉の御朱印を受けてみてください。鹿島神宮の要石に手を合わせてみてください。常陸国風土記を開いてみてください。
そして茨城を離れた同郷の方がもしこの文章を読んでくださっていたら——一度、帰ってみませんか。きっと、あなたが知らなかった故郷が、そこにあります。
追記——会場での二つの不思議な出会い
公開後にどうしても書き残しておきたくなった、二つのエピソードがあります。どちらも、講演の内容そのものではなく、その日その会場で起きた、偶然のような必然のような出来事です。
40年ぶりの従妹との再会
会場に着いて席を探していたとき、思わず息が止まりました。長く疎遠だった従妹が、同じ講演を聞きに来ていたのです。
ちょっとした家族内のもめごとがあって、ずっと顔を合わせていませんでした。それがまさか、茂木さんの講演会場で——茨城の古代史を聞きに来る場で——再会することになるとは。
考えてみれば、茨城の歴史に惹かれる血が、私たちの中には流れていたのかもしれません。離れていても、同じ日に、同じ場所に、自然と引き寄せられた。40年ぶりに故郷の物語を聞きに来た私と、疎遠だった従妹が、同じ会場で再会する——これは出来すぎた偶然のようでいて、実際に起きた本当のことです。
故郷の物語と再会する日に、血縁とも再会する。失われていたものが、同じ日に二つ、戻ってきた。そんな感覚でした。
佐竹氏の家臣のご子孫との出会い
もう一つは、講演中に近くの席にいらした方とのお話です。
少しお話ししたところ、その方は茨城を治めていた戦国大名・佐竹氏に仕えた武士のご子孫だと教えてくださいました。佐竹氏は平安時代後期から続く常陸の名族で、関ヶ原の戦いの後、慶長七年(1602年)に徳川家康の命で突然、秋田への国替えを命じられました。先祖伝来の常陸の地を、500年以上の歴史の重みを背負って離れることになったのです。
その時、家臣たちはそれぞれ選択を迫られました。主君について秋田へ行くか、常陸に残るか——。
その方のご先祖は、佐竹氏に従って秋田へ移った家だそうです。そして驚いたことに、私の家は——詳しい経緯までは分かりませんが——連れて行ってもらえなかった家だと聞いています。
つまり、400年以上前に別れた家の子孫同士が、2026年の筑波の講演会場で、たまたま近くの席に座っていたわけです。
ついて行った家と、残った家。秋田へ向かった人々と、茨城に留まった人々。私たちはその両方の側から、400年の歳月を経てここに集まっている。考えれば考えるほど、不思議な感慨が湧きます。
土地は人を呼び戻す
この二つの偶然は、私に大切なことを教えてくれました。
土地は、ただの地理ではないということ。土地は人と人を結びつけ、時を越えて再会させる力を持っています。40年離れていた従妹も、400年前に別れた家の子孫も、「茨城の古代史を聞きたい」という思いに引き寄せられて、同じ会場に集まった。
故郷を離れた者にとって、故郷は時に「置き去りにしてきた場所」のように感じられます。でも本当はそうではないのかもしれません。故郷は、いつか帰ってくる者のために、扉を開けて待っていてくれる場所なのです。そして、その扉をくぐった先には、思いがけない再会が用意されているのかもしれません。
茂木さんの講演は、私にとって茨城の古代史を知るきっかけ以上のものでした。40年越しの、たくさんの再会——故郷との再会、血縁との再会、見知らぬ縁ある人との出会い。すべてが一日の中で起きた、忘れがたい体験でした。
茨城という土地に、改めて、深く感謝しています。
最後にもう一度茂木先生、本当にありがとうございました!
最後にもう一度茂木先生、ありがとうございました!
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